最後の場所で
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カテゴリ:一般
発行年月:2002.1
出版社: 新潮社
サイズ:20cm/397p
利用対象:一般
ISBN:4-10-590028-5
紙の本
最後の場所で (Crest books)
著者 チャンネ・リー (著),高橋 茅香子 (訳)
礼節ある「日系アメリカ人」ドク・ハタには、在日コリアンとして生まれ、日本人の養子となり、同胞の慰安婦を愛して破滅させた過去があった。K・イシグロの「日の名残り」以来の傑作...
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紙の本
最後の場所で (Crest books) 税込 2,530 円 23pt
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評価4.0レビュー:1件
税込価格:2,860円(26pt)
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商品説明
礼節ある「日系アメリカ人」ドク・ハタには、在日コリアンとして生まれ、日本人の養子となり、同胞の慰安婦を愛して破滅させた過去があった。K・イシグロの「日の名残り」以来の傑作と絶賛された韓国系アメリカ作家の長編。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
チャンネ・リー
略歴〈リー〉1963年ソウル生まれ。イェール大学卒業。第1作「ネイティヴ・スピーカー」でPEN/ヘミングウェイ賞ほかを受賞。
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みんなのレビュー(10件)
みんなの評価 4.2
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評価内訳
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Honto
Honto
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紙の本 コリアン・アメリカンが描く老いた日本人の姿は、ためらい、独善、開き直り、そして勤勉もふくめて現在の私たちの姿でしょう。36歳でここまで老人の心理を描くのか、と感心します 2006/05/18 19:46
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「ニューヨーク近郊に住む日本人ハタは、ドクと呼ばれて親しまれているもとメディカル・サプライ・ストアの経営者。養女のサニーが家を出て、今は一人チューダー・リヴァイヴァル式の屋敷に住む。彼の人生の軌跡」純文学。
ハタは、いわゆる日系アメリカ人ではありません。また戦争前からアメリカに住んでいた男でもありません。第二次大戦中は、日本軍人として南方で軍務についていました。ただし、軍医の補助をする役割で、軍医からも兵隊からも中途半端な存在として扱われ、決して尊敬されていたわけではありません。現地で調達された慰安婦の病気の検査などをしたりするのが主な仕事でした。
そして戦後、まだアメリカ人の日本人を見る視線が厳しい時代に、ニューヨーク近郊の、比較的人種に対しておおらかな一応ベドリー・ランという町で医療品を扱う商売を始めたのです。町の人は、手離しで友好的というわけではなかったものの、ハタを受け入れます。彼らは店に親しみ、医者の資格は持たないものの、気軽に相談にのってくれる彼をドクと呼んで親しんでいました。
その彼も既に70歳を越え、今では店を売却し、不動産屋のリブ・クロフォードが是が非でも手がけたいと思うチューダー・リヴァイヴァル式の屋敷に一人住んでいます。自宅のプールでのんびり泳ぎ、一人寛ぐ彼ですがが、リブとの電話の最中に火事を起こし、家の一部を燃やし、自分は入院してしまいます。
彼が思い出すのは、今は家を出ている養女の娘サニーが、成長するに従い、彼を嫌い、反抗していったことや、戦争中に南方で従軍していたときの軍医との会話、そして慰安婦として連れてこられた朝鮮の姉妹のことでした。姉を殺された妹が見抜いた、彼の本当の姿。自分の都合のいいようにしか事実を受け止めることのできない優柔不断な男の軌跡を静かに描いていきます。
あとがきにもありますが、作者チャンネ・リーは1963年ソウル生まれ、今はアメリカに住むコリアン・アメリカン作家だそうです。この作品を書いたのが36歳の1999年。その若さで描く老いた日本人ハタの姿は、同世代の日本人が決して描き得ないような洞察に富んだ静謐極まりないものです。ためらい、独善、開き直り、そして勤勉。それはまさに現在の私たちの姿です。
ニューヨーカー誌「21世紀期待の若手作家20人」に選ばれるのがよくわかる、時の流れを感じさせる雄大な作品です。しかも、人間の卑小さだけでなく、なんともいいようのない優しさが伝わってきます。第一作『ネイティヴ・スピーカー』でさまざまな賞を受賞したとあるのが納得できます。それ以上の好評を得たというのがこの作品だそうです。今後が楽しみな作家といえるでしょう。
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紙の本 コリアン・アメリカンが描く老いた日本人の姿は、ためらい、独善、開き直り、そして勤勉もふくめて現在の私たちの姿でしょう。36歳でここまで老人の心理を描くのか、と感心します 2006/05/18 19:46
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投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「ニューヨーク近郊に住む日本人ハタは、ドクと呼ばれて親しまれているもとメディカル・サプライ・ストアの経営者。養女のサニーが家を出て、今は一人チューダー・リヴァイヴァル式の屋敷に住む。彼の人生の軌跡」純文学。
ハタは、いわゆる日系アメリカ人ではありません。また戦争前からアメリカに住んでいた男でもありません。第二次大戦中は、日本軍人として南方で軍務についていました。ただし、軍医の補助をする役割で、軍医からも兵隊からも中途半端な存在として扱われ、決して尊敬されていたわけではありません。現地で調達された慰安婦の病気の検査などをしたりするのが主な仕事でした。
そして戦後、まだアメリカ人の日本人を見る視線が厳しい時代に、ニューヨーク近郊の、比較的人種に対しておおらかな一応ベドリー・ランという町で医療品を扱う商売を始めたのです。町の人は、手離しで友好的というわけではなかったものの、ハタを受け入れます。彼らは店に親しみ、医者の資格は持たないものの、気軽に相談にのってくれる彼をドクと呼んで親しんでいました。
その彼も既に70歳を越え、今では店を売却し、不動産屋のリブ・クロフォードが是が非でも手がけたいと思うチューダー・リヴァイヴァル式の屋敷に一人住んでいます。自宅のプールでのんびり泳ぎ、一人寛ぐ彼ですがが、リブとの電話の最中に火事を起こし、家の一部を燃やし、自分は入院してしまいます。
彼が思い出すのは、今は家を出ている養女の娘サニーが、成長するに従い、彼を嫌い、反抗していったことや、戦争中に南方で従軍していたときの軍医との会話、そして慰安婦として連れてこられた朝鮮の姉妹のことでした。姉を殺された妹が見抜いた、彼の本当の姿。自分の都合のいいようにしか事実を受け止めることのできない優柔不断な男の軌跡を静かに描いていきます。
あとがきにもありますが、作者チャンネ・リーは1963年ソウル生まれ、今はアメリカに住むコリアン・アメリカン作家だそうです。この作品を書いたのが36歳の1999年。その若さで描く老いた日本人ハタの姿は、同世代の日本人が決して描き得ないような洞察に富んだ静謐極まりないものです。ためらい、独善、開き直り、そして勤勉。それはまさに現在の私たちの姿です。
ニューヨーカー誌「21世紀期待の若手作家20人」に選ばれるのがよくわかる、時の流れを感じさせる雄大な作品です。しかも、人間の卑小さだけでなく、なんともいいようのない優しさが伝わってきます。第一作『ネイティヴ・スピーカー』でさまざまな賞を受賞したとあるのが納得できます。それ以上の好評を得たというのがこの作品だそうです。今後が楽しみな作家といえるでしょう。
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紙の本 若き著者と年老いた主人公を結びつけたもの 2002/10/12 23:01
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:HATA - この投稿者のレビュー一覧を見る
あとがきによると、著者は自らソウルに赴き、実際に日本軍に従事させられた元慰安婦の方々に直接取材をしたという。
当時を知らぬ世代が当時を生き抜いた証人の口から「証言」を聞く時、
ある者は胸を突かれ、顔をゆがめ、ただ涙を浮かべて、言葉を失うしかないだろう。
ある者はそれを記述することで、歴史の事実として先に残す仕事を引き受けるだろう。
そしてそのどちらも選ぶことができない者がいる。それが作家だ。
断じて言葉を失うことなどできず、事実として書き記すだけでは満たされない者のことである。
著者は当初、ひとりの元慰安婦の視点から語られる小説を書いていたが、数百頁も書いてから「女性たちが語った真実に触れてもいなければ、その深さにも近づいていない」(訳者あとがきより)と気付いたという。
結局それまでに書いたものをすべて捨て、まったく違う小説として新たに本著を書き上げた。
女性たちの視点では描ききれなかった「真実」とは「その深さ」とは、何だったのか?
そこへ到達するために必要とされたのが、日本軍兵として彼女たちに向き合うこととなった“同胞”ドクによって静かに語られる、この長い物語である。
物語の主題は、決して従軍慰安婦について、或いはそれにまつわる国家間の政治的問題についてではない。
あくまで、偶然にもそれを語らずには決着できないものとなってしまった語り手ドクの、人生の物語だ。
原題を“A Gesture Life”という。
「最後の場所で」という邦題は、本文中から引用されたものと思われるが、“そこ”に至るまでの長い長い時間も、さまざまな幾多の体験も暗示していて、静かで、穏やかで、ちょっと哀しげで、いいタイトルだと思う。
本文中にもほんの数回登場するこの言葉=gestureは、そこでは「体裁」と訳されている。
「体裁の人生」だなんて、厳しい日本語だが、ひとは常に何者かの視線を意識して生きているものだ。それに怯えることだってある。一方で他者の視線など、実は自分の内面にも深層にも届いてこないことも知っていて、安心している。
そして結局は「本当の自分をわかって欲しい」なんて感傷的に嘆いてみせて、やっぱり他者を求めるのだ。
語り手ドクは、何十年も前の戦地での体験を抱え込んでいる。冷静に冷酷に、その記憶の底辺にまでしっかりと踏み入ってゆけるほどに、抱え込んでいる。
悲しいのは彼が「いま」を生きており、新たな場所で新たな人生を手に入れることに成功し、日常を生きていることである。
どれほど残酷な記憶を抱えていても、日常を生きるためにはひとを求め、ひとを愛する。
自分の記憶などとは無関係にあるひとたちを、いま、愛さなくてはならないし、愛したいのだ。
そう語りかけてくるような著者の文体は、細やかな表現にもひっかかるところがなく、「美しい」文章にありがちな気恥ずかしい表現も、説教くささも感じない。もちろん訳者のセンスに依るところも大いにあるだろうが、こういった感性の確かさも好ましい。
30代半ばでこれを書き上げた著者は、自身の倍以上も年老いたひとりの男にそのジェスチャア・ライフを語らせ、それを成功させ、まるで人生のすべてを知り尽くしてしまっているかのようだ。
しかしジェスチャアそれ自体は、著者自身も、著者より若い読者も若くない読者も、誰しもが備えている。
それをうまく使えるか否かに、年齢も国籍も生い立ちも関係ない。
若き著者は、決して人生を知り尽くしているわけではない。
ただ、ジェスチャアを使いこなせるひとはとても少ないのだということを、知っている。
それこそが著者が持つ強度であり、この物語の始まりを導いたのだろう。
体裁によって手に入れられるものがる。体裁のために必ず失うものがある。
ひとを傷つけずに生きてゆけるほどには強くもなれない。
それでも、ひとは生きることを許されている。生きることを、まだ続けてもかまわないのだ。
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紙の本 若き著者と年老いた主人公を結びつけたもの 2002/10/12 23:01
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:HATA - この投稿者のレビュー一覧を見る
あとがきによると、著者は自らソウルに赴き、実際に日本軍に従事させられた元慰安婦の方々に直接取材をしたという。
当時を知らぬ世代が当時を生き抜いた証人の口から「証言」を聞く時、
ある者は胸を突かれ、顔をゆがめ、ただ涙を浮かべて、言葉を失うしかないだろう。
ある者はそれを記述することで、歴史の事実として先に残す仕事を引き受けるだろう。
そしてそのどちらも選ぶことができない者がいる。それが作家だ。
断じて言葉を失うことなどできず、事実として書き記すだけでは満たされない者のことである。
著者は当初、ひとりの元慰安婦の視点から語られる小説を書いていたが、数百頁も書いてから「女性たちが語った真実に触れてもいなければ、その深さにも近づいていない」(訳者あとがきより)と気付いたという。
結局それまでに書いたものをすべて捨て、まったく違う小説として新たに本著を書き上げた。
女性たちの視点では描ききれなかった「真実」とは「その深さ」とは、何だったのか?
そこへ到達するために必要とされたのが、日本軍兵として彼女たちに向き合うこととなった“同胞”ドクによって静かに語られる、この長い物語である。
物語の主題は、決して従軍慰安婦について、或いはそれにまつわる国家間の政治的問題についてではない。
あくまで、偶然にもそれを語らずには決着できないものとなってしまった語り手ドクの、人生の物語だ。
原題を“A Gesture Life”という。
「最後の場所で」という邦題は、本文中から引用されたものと思われるが、“そこ”に至るまでの長い長い時間も、さまざまな幾多の体験も暗示していて、静かで、穏やかで、ちょっと哀しげで、いいタイトルだと思う。
本文中にもほんの数回登場するこの言葉=gestureは、そこでは「体裁」と訳されている。
「体裁の人生」だなんて、厳しい日本語だが、ひとは常に何者かの視線を意識して生きているものだ。それに怯えることだってある。一方で他者の視線など、実は自分の内面にも深層にも届いてこないことも知っていて、安心している。
そして結局は「本当の自分をわかって欲しい」なんて感傷的に嘆いてみせて、やっぱり他者を求めるのだ。
語り手ドクは、何十年も前の戦地での体験を抱え込んでいる。冷静に冷酷に、その記憶の底辺にまでしっかりと踏み入ってゆけるほどに、抱え込んでいる。
悲しいのは彼が「いま」を生きており、新たな場所で新たな人生を手に入れることに成功し、日常を生きていることである。
どれほど残酷な記憶を抱えていても、日常を生きるためにはひとを求め、ひとを愛する。
自分の記憶などとは無関係にあるひとたちを、いま、愛さなくてはならないし、愛したいのだ。
そう語りかけてくるような著者の文体は、細やかな表現にもひっかかるところがなく、「美しい」文章にありがちな気恥ずかしい表現も、説教くささも感じない。もちろん訳者のセンスに依るところも大いにあるだろうが、こういった感性の確かさも好ましい。
30代半ばでこれを書き上げた著者は、自身の倍以上も年老いたひとりの男にそのジェスチャア・ライフを語らせ、それを成功させ、まるで人生のすべてを知り尽くしてしまっているかのようだ。
しかしジェスチャアそれ自体は、著者自身も、著者より若い読者も若くない読者も、誰しもが備えている。
それをうまく使えるか否かに、年齢も国籍も生い立ちも関係ない。
若き著者は、決して人生を知り尽くしているわけではない。
ただ、ジェスチャアを使いこなせるひとはとても少ないのだということを、知っている。
それこそが著者が持つ強度であり、この物語の始まりを導いたのだろう。
体裁によって手に入れられるものがる。体裁のために必ず失うものがある。
ひとを傷つけずに生きてゆけるほどには強くもなれない。
それでも、ひとは生きることを許されている。生きることを、まだ続けてもかまわないのだ。
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紙の本 在米コリアンによって書かれた日系アメリカ人のジェスチャーめいた生活。従軍看護婦の件がこのように小説に結晶されるとは!日本人としてと言うより、女として、悲しくなった。 2002/03/03 17:08
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
『朗読者』『アムステルダム』などと同じシリーズだし、表紙の静謐で美しい佇まいに惹かれ、「きっといい本だ」と信じて読み始める。書評もまだ出てきていない。先入観がなかったので、導かれた先の思いがけない深みに驚き、そして戸惑ってしまった。
あとで読んだカバー袖の作品紹介に、私の好きなカズオ・イシグロとの相対評価めいたことが書かれていた。『日の名残り』以来の傑作と絶賛されたのだという。——異論はない。老境にさしかかった男性が、今ここにある自分を見つめる。過ぎ去った日々の出来事に哀悼とも言える悲しみを抱いているが、経歴も欠点も含め、そうでしかあり得なかった自分という存在をとにもかくにも引き受けている。そのような主人公の心のありようと、品の良い端正な文体、読み手の感覚のサンクチュアリにそっと触れたいと願うような作家の姿勢が、確かに『日の名残り』を彷彿させた。
英語で読んだらどうなのかは知らないけれど、最初の3分の1ぐらいなら、これはイシグロの新作だと言われて読めば、疑いもなく信じてしまいそうな感じがする。
そこから先、「性」の扱いという点において、イシグロとは少し違うなという気はした。次いで、この小説は、「生きてきた時代」と「流れていって住みつくことになった場所」の二項に規定されたひとりの男性の性愛を描いていること、その規定を越えなかった悔いこそが、この小説の特徴なのだろうと思えてきた。
「悲しみ」という言葉ばかり重ねることになり、くどいな…とは自覚している。決してペシミストというわけでもないが、年を重ねるごとに、悲しみが層を成してしまうというのは否定できないことだと思えるのだ。それは、まるで腕の良い洋菓子職人が作るミルフィーユのように薄い薄い層になってふんわり重なっている。もろく見える。
在日コリアンとして生まれ、裕福な日本人の養子として育った物語の主人公ドク・ハタも、生や育ちという先天的なものに加え、限界を突き破ることがなかった自分の言動において、さらに知り合った人びとの不幸を見てしまったことによって、多くの悲しみを積み重ねてしまった人物である。ニューヨーク郊外の小さな町で店を営み、工夫や研究の結果商売を成功させた。財と信望を築いてきた人生は、社会的な見かけとしては結構なもので、ハタは堂々のリタイアをし第二の人生に入っている。
しかし、彼に家族はない。幼いころから養女として手塩にかけて育てた娘は、10代のうちに家を出ていってしまった。その娘とも親しく交際してくれたハタの恋人は、一時結婚も考えていた仲だったが、今は亡き人となっている。娘とも恋人とも、決裂に至った原因はハタの性格にある。また、店を買ってくれた夫婦とは交際があったが、その家の子どもが重い病気であることを知る。そうした傷みを考えれば、ハタが送る静かで結構な余生は、悲しみを表出させないジェスチャーのようなものなのである。
そして、彼はもうひとつ大きな大きな悲しみを負っている。日本人として従軍した南方で、コリアンの慰安婦と出会い睦み、彼女の期待を裏切ったという過去があったのである。外交や思想の場でなく、人間に普遍的な悲しみのひとつとして従軍慰安婦が小説に描かれた。この小説の意味は深く重すぎる。
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2005/06/02 09:31
投稿元:ブクログ
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読書メーターのレビュー
2019/07/16
151 投稿元:読書メーター
日系アメリカ人として 今は 穏やかな日々を 送る ドク・ハタの人生を 静謐に語った物語である。 淡々と一人称で語られる日々の背後には 絶えず 過去の悔恨が潜み、ドク・ハタの孤独が 痛々しい。 在日コリアンとして 日本で生まれたドク・ハタの従軍中での 慰安婦との出来事… この生々しい過去を抱えながら、今を生きる ドク・ハタの ジェスチャー・ライフ… ひどく平穏な日々ゆえに 従軍中の悲劇が 逆に際立つ…最後の場所で ドク・ハタは 何を 思うのか?ひどく 哀切な物語だった。
2020/03/31
31 投稿元:読書メーター
主人公の静かな語り。だがフラッシュバックのように挟まれる過去は、あまりにも鮮烈だった。若い彼が破滅に追い込んだ従軍慰安婦、望まぬ妊娠をした養女にしたこと。読んでいて辛く、目や耳を塞ぎたくなるようなシーンだった。朝鮮人の両親から生まれ日本人に養子となり、帝国陸軍で軍医の助手として任地に赴く。そして日系アメリカ人として豊かに暮らす一見穏やかな日々。原題はA GESTURE LIFE。彼の人生はいつもGESTURE=体裁を整えながら、無から無へと漂ってきた。ラストシーンは彼のGESTUREでないと強く思わせた。
2015/12/23
8 投稿元:読書メーター
在日朝鮮人として生まれ、戦時下で必死に「日本人」になろうとしたハタ。戦後、米国で日系人として新しい生活を始めるも、韓国人の養女との関係は上手く行かない。ハタは自分は「日本人」だと必死に口にするが、彼のアイデンティティは常に不安定であり、その人生は虚しい gesture の積み重ねにすぎず、自分は人生を本当に生きていないという実感のみが残る。戦時中に出会った一人の慰安婦の存在が重くのしかかるようだが、彼のKへの愛情というのはどこか独善的で上滑りしていて、どこまでも現実に生きることを拒否しているように思えた.
紙の本 在米コリアンによって書かれた日系アメリカ人のジェスチャーめいた生活。従軍看護婦の件がこのように小説に結晶されるとは!日本人としてと言うより、女として、悲しくなった。 2002/03/03 17:08
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
『朗読者』『アムステルダム』などと同じシリーズだし、表紙の静謐で美しい佇まいに惹かれ、「きっといい本だ」と信じて読み始める。書評もまだ出てきていない。先入観がなかったので、導かれた先の思いがけない深みに驚き、そして戸惑ってしまった。
あとで読んだカバー袖の作品紹介に、私の好きなカズオ・イシグロとの相対評価めいたことが書かれていた。『日の名残り』以来の傑作と絶賛されたのだという。——異論はない。老境にさしかかった男性が、今ここにある自分を見つめる。過ぎ去った日々の出来事に哀悼とも言える悲しみを抱いているが、経歴も欠点も含め、そうでしかあり得なかった自分という存在をとにもかくにも引き受けている。そのような主人公の心のありようと、品の良い端正な文体、読み手の感覚のサンクチュアリにそっと触れたいと願うような作家の姿勢が、確かに『日の名残り』を彷彿させた。
英語で読んだらどうなのかは知らないけれど、最初の3分の1ぐらいなら、これはイシグロの新作だと言われて読めば、疑いもなく信じてしまいそうな感じがする。
そこから先、「性」の扱いという点において、イシグロとは少し違うなという気はした。次いで、この小説は、「生きてきた時代」と「流れていって住みつくことになった場所」の二項に規定されたひとりの男性の性愛を描いていること、その規定を越えなかった悔いこそが、この小説の特徴なのだろうと思えてきた。
「悲しみ」という言葉ばかり重ねることになり、くどいな…とは自覚している。決してペシミストというわけでもないが、年を重ねるごとに、悲しみが層を成してしまうというのは否定できないことだと思えるのだ。それは、まるで腕の良い洋菓子職人が作るミルフィーユのように薄い薄い層になってふんわり重なっている。もろく見える。
在日コリアンとして生まれ、裕福な日本人の養子として育った物語の主人公ドク・ハタも、生や育ちという先天的なものに加え、限界を突き破ることがなかった自分の言動において、さらに知り合った人びとの不幸を見てしまったことによって、多くの悲しみを積み重ねてしまった人物である。ニューヨーク郊外の小さな町で店を営み、工夫や研究の結果商売を成功させた。財と信望を築いてきた人生は、社会的な見かけとしては結構なもので、ハタは堂々のリタイアをし第二の人生に入っている。
しかし、彼に家族はない。幼いころから養女として手塩にかけて育てた娘は、10代のうちに家を出ていってしまった。その娘とも親しく交際してくれたハタの恋人は、一時結婚も考えていた仲だったが、今は亡き人となっている。娘とも恋人とも、決裂に至った原因はハタの性格にある。また、店を買ってくれた夫婦とは交際があったが、その家の子どもが重い病気であることを知る。そうした傷みを考えれば、ハタが送る静かで結構な余生は、悲しみを表出させないジェスチャーのようなものなのである。
そして、彼はもうひとつ大きな大きな悲しみを負っている。日本人として従軍した南方で、コリアンの慰安婦と出会い睦み、彼女の期待を裏切ったという過去があったのである。外交や思想の場でなく、人間に普遍的な悲しみのひとつとして従軍慰安婦が小説に描かれた。この小説の意味は深く重すぎる。
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2005/06/02 09:31
投稿元:ブクログ
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読書メーターのレビュー
2019/07/16
151 投稿元:読書メーター
日系アメリカ人として 今は 穏やかな日々を 送る ドク・ハタの人生を 静謐に語った物語である。 淡々と一人称で語られる日々の背後には 絶えず 過去の悔恨が潜み、ドク・ハタの孤独が 痛々しい。 在日コリアンとして 日本で生まれたドク・ハタの従軍中での 慰安婦との出来事… この生々しい過去を抱えながら、今を生きる ドク・ハタの ジェスチャー・ライフ… ひどく平穏な日々ゆえに 従軍中の悲劇が 逆に際立つ…最後の場所で ドク・ハタは 何を 思うのか?ひどく 哀切な物語だった。
2020/03/31
31 投稿元:読書メーター
主人公の静かな語り。だがフラッシュバックのように挟まれる過去は、あまりにも鮮烈だった。若い彼が破滅に追い込んだ従軍慰安婦、望まぬ妊娠をした養女にしたこと。読んでいて辛く、目や耳を塞ぎたくなるようなシーンだった。朝鮮人の両親から生まれ日本人に養子となり、帝国陸軍で軍医の助手として任地に赴く。そして日系アメリカ人として豊かに暮らす一見穏やかな日々。原題はA GESTURE LIFE。彼の人生はいつもGESTURE=体裁を整えながら、無から無へと漂ってきた。ラストシーンは彼のGESTUREでないと強く思わせた。
2015/12/23
8 投稿元:読書メーター
在日朝鮮人として生まれ、戦時下で必死に「日本人」になろうとしたハタ。戦後、米国で日系人として新しい生活を始めるも、韓国人の養女との関係は上手く行かない。ハタは自分は「日本人」だと必死に口にするが、彼のアイデンティティは常に不安定であり、その人生は虚しい gesture の積み重ねにすぎず、自分は人生を本当に生きていないという実感のみが残る。戦時中に出会った一人の慰安婦の存在が重くのしかかるようだが、彼のKへの愛情というのはどこか独善的で上滑りしていて、どこまでも現実に生きることを拒否しているように思えた.
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