「帝国」と「民族」の交差路で
―林和研究からはじめて
渡辺直紀 ✉ wata2002@hotmail.com
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私が林和(イム・ファ/1908-1953?)という詩人・評論家に関心を持ったのは、彼の文学的なポジションの推移を追うことで、植民地朝鮮の文学のさまざまな位相が捉えられると思ったからである。たとえば彼は、自分よりはるかに先輩格の作家・李光洙(イ・グァンス/1892-1950)が唱えた民族啓蒙に、プロレタリア文学の評論家として冷静な批判を加えた。といって、彼は階級革命を主張するあまり、民族を否定してしまったわけではない。朝鮮の文学史を構想する場においても、「朝鮮文学」の範疇から漢文学を駆逐しようとする李光洙に対して、林和は中世普遍語としての漢文ないし漢文学が朝鮮半島において占めた位相を評価して、広義の朝鮮文学の一部に組み入れた。この両者の見解の、どちらがロマン主義的なものかは判然としないが……。また1930年代中盤に植民地朝鮮の文壇に忽然と現れた、鄭芝溶 (チョン・ジヨン/1902-50)や朴泰遠(パク・テウォン/1909-1986)などのモダニズム文学者に対しても、林和はかなり興奮した、否定的な口調ではあったが、統一した世界観=リアリズムの崩壊を指摘しながら、彼らがどのような文学を指向しているのか巧妙に言い当てた。実に彼の舌鋒は、つねに、そのときどきの植民地朝鮮の文学の、彼なりに見たあるべき姿を立体的に示す、批評であり文学史論だったのだといえる。
その林和に対する私の関心が、妙なきっかけで、ある時期から、思わぬ拡散、いや、はっきり言って方向喪失を見せた。それは、やはり同じ林和が植民地末期にいくつか残した映画論について考え始めたことから始まった。林和は、当時の植民地朝鮮の映画にも、作家としてコミットしていたが、彼は往時のプロレタリア文学の評論家の片鱗も見せながら、やはり文化企業としての映画社のあるべき姿を語り、そして、その製作主体としての民族を語ったのである。それは朝鮮文学の歴史を眺望する彼の議論とも奇妙に符合したが、あえていえば、それは映画評論などではなく、一種の文化運動論だったといえるかもしれない。当然すぎる話だが、ひとつの映画作品は、文学作品とちがって、ひとりの作者による創作物ではなく、さまざまな人の手が加わったものである。だから、当然、当時の植民地朝鮮の映画も、単に朝鮮人の独力で、朝鮮の民族資本だけで成就する事業は数少なかった(それでも民族資本で劇映画をほとんど製作できなかった当時の台湾に比べて、それをすばらしい水準で成就した朝鮮映画は、世界映画史的に見てもきわめて奮闘した方だろう。これも現在の台湾シネマの隆盛を考えると信
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じられないことだが)。植民地朝鮮映画のその困境と奮闘を、私は 望楼の決死隊 (今井正監督、1943)や 愛と誓ひ (今井正・崔寅奎監督、1945)(ともに日朝合作)、あるいは 福地萬里 (全昌根監督、1941/朝満合作、ただしフィルム現存せず)など、当時の合作映画の製作過程を追うことで確認した。そこで私の目の前にちらついたのは、満洲、あるいはもっと直裁に言って満洲映画協会の影であった。当時の植民地朝鮮における映画製作には、帝国日本と満洲の間にはたらいた磁場が微妙に影響していた(おそらくその影響圏は、解放後の韓国のみならず北朝鮮の映画史も規定するものだったにちがいない)。李香蘭(山口淑子/1920-2014)が出演する映画が、当時、日本の植民地だった朝鮮や台湾でどのように受け入れられたかを見ても、その反応や人的交流は単にそれぞれの内部にとどまるものではなく、東アジア全域にまたがるものだった。
2011年に勤務校でサバティカルを得て、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UC San Diego)で1年間、Visiting Scholarとして滞在したとき、私は、それまでやってきたこれらの研究を、ある程度まとめるつもりでいた。しかし、カリフォルニアという土地で実際に見聞きする、民族とその移動をめぐるナラティブは、これまでの私の上のような関心を、さらにもう一段階、複雑なものに作り上げた。たとえば第二次大戦期、あるいはその直前あたりのカリフォルニアにおけるコリアン・アメリカンのおかれた立場については、それまで知識としては断片的に知っていたが、カリフォルニアのまぶしい太陽のもと、現在もさまざまな民族が実際に交差する諸場面において、そのこ
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とに思いを致すと、また格別なものとしてそれが私の思考に迫ってきた。
たとえば、独立運動家・島山・安昌浩(アン・チャンホ/1878-1938)の長男で、ハリウッド俳優として有名なPhilip Ahn(1905-7 8)。第二次大戦中は日本人の悪役もこなしたという彼は、実際の大戦では従軍中に負傷して早期除隊をしたことでも有名だが、彼のハリウッド俳優としての名声はロサンゼルスではかなりのもので、現在でもロサンゼルスの南カリフォルニア大学の韓国学研究所として使用されている木造の瀟洒な建物は、ある時期まで彼らの住居として使われていたものである。聞くと、解放後の韓国ではある時期まで、彼が出演したハリウッド映画はたびたびテレビで放映され、それゆえに一般の視聴者は、特に有名な独立運動家の息子だという意識もなく、彼が出演した作品を淡々と見て(見せられて)いたらしい。その彼は、たとえば李香蘭が戦後、上海で、漢奸裁判の被告席から命からがら逃れてきて、日本で山口淑子という本名で映画女優の活動を再開し、さらに1950年代にハリウッドに進出してShirley Yamaguchiという名前で何本かの映画に出たとき、 東は東
(キング・ヴィダー監督、1952/原題は Japanese War Bride)という作品で、山口の祖父役としても出演している。
かと思えば、そのPhilip Ahnがハリウッドでコリアン・アメリカンの俳優として活躍しはじめていた1930年代の中盤、当時の日本や朝鮮で活躍していた舞踊家の崔承喜 (チェ・スンヒ/1911-69)が、やはりアメリカ公演のためにロサンゼルスを訪れている。そのときの彼女の名前は「チェ・スンヒ」ではなく「Sai Sh ki」だったが、彼女の公演は当時、現地のコリアン・アメリカンの民族団体によって妨害工作に遭っており、それに対して崔承喜も雑誌など各種メディアで「遺憾」を表明せざるを得なかった。1920 年代や30年代、アメリカに渡ったコリアンは、いわゆる日本の旅券を所持して渡航するしかなかったはずだが、これも1924年にアメリカで改定されたいわゆる「排日移民法」によって、日本からの渡米がきびしく制限されてからは、上海などに一度渡って、中国人労働者としてアメリカ西部に密航する事例なども多かったという。しかし、いわゆる「在米韓人史」のような本をひもといてみても、そのような渡航経緯の複雑さにはあまり触れられておらず、政治団体や宗教団体の説明も、組織図や設立経緯を並べて述べるにとどまっていて、互いの政治的主張の違いやその衝突については、あまり詳しく述べられていない。はたまた、これはフィクションでの話だが、コリアン・アメリカンの作家チャンネ・リー(Chang-rae Lee)の長篇 最後の場所で (1999, 原題はAGesture Life, 日本語訳あり)は、ある日系アメリカ人医師の翳りに満ちた過去を描き出す物語だが、作品のなかでこの主人公は、戦時中、慰安所つきの軍医として勤務した植民地出身者 (元・朝鮮人)という設定になっている。もちろんこれはあくまでフィクションでの話だが、一方で、第二次大戦中のアメリカにお け る 日系人 の 強制収容 、 い わ ゆ る Internmentでも、朝鮮人が間違って収容された事例は実際にあったというから、いわゆる「Japanese American」も、当時、単に「日本」から渡ってきたのではなく、いわゆる「大日本帝国」から渡ってきた人々だったと考えるべきなのである。であるから、それと同じ事情で、コリアン・アメリカンのなかにも、民族主義団体に入って独立運動に加わる人がいたかと思えば、 最後の場所で の主人公のように、複雑な人生を歩んだ人たちも少なからずいたのだろうと考えざるを得ない。そうすると、アメリカにおいて単に民族別のマイノリティを想定してその歴史を考えること自体にどのような意味があるのか、少しわからなくなってくる。
また、話を少しハリウッドのことに戻せば、戦前や戦中にPhilip Ahnが俳優として映画作品で、また崔承喜が舞踊家としてアトラクションで活躍し、戦後にはShirley Yamaguchiが映画女優として再帰をかけたというと、いかにも東アジアの銀幕や舞台のスターたちによるアメリカ進出の武勇伝と考えがちだが、彼ら/彼女らが戦前、戦中、戦後に進出したハリウッド自体の生成も、製作者から観客に至るまで、実は一枚岩の「アメリカ人」によるものでなく、数多くのヨーロッパ移民の流入によって支えられたものだった。たとえば当時、アメリカの著名な映画社のほとんどは、東欧から亡命してきたユダヤ人によって設立されたものだったし、古代ローマを舞台にした大作映画なども、貧しい南イタリアから渡ってきたイタリア人移民の観客の、郷愁に満ちた絶大なる支持のもとに成功を収めた(加藤幹郎映画館と観客の文化史 )。アメリカ映画やハリウッドが、そのような移民の流入と、彼らのエスニック・アイデンティティの形成によって生成する途上にあったとき、Philip Ahnも崔承喜もShirley Yamaguchiも、その渦中において、他の移民たちとまったく同様に、自らの演技者・舞踊家としての力量を発揮していたのだと考えるべきだろう。
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林和研究からはじまって、これまで、韓国文学研究から離れたという自覚は一度も持ったことはないが、それにしてもずいぶん他のことにも顔を突っ込んできた。しかし不思議と私の関心は一貫している。他に中西伊之助(1887-1958)や張赫宙(1905-1997). 李良枝(1955-1992)などの作品を読んで、あるいは金石範(1925-)の諸作品に打ちのめされながら、言語によって切り取られる空間の臨界や切片について考えてきたことを思えば、どうも私は、民族と、それを囲むさまざまなレベルの極限状況、たとえば帝国のはざまに生きた作家のエクリチュールや、演技者の公私にわたるパフォーマンスに強い関心を持ってきたようである。今後もその志向は変わらないだろうが、もう少しそれぞれのテーマについて、このように管ばかり巻かずまとまったものを書いておくべきだろう。さて、どれくらいできるだろうか。――「日暮れて道遠し」、あるいは「夕陽無限好、只是近黄昏」のような文句しか頭に浮かばない。
渡辺直紀 Naoki WATANABE
(日本)武蔵大学人文学部教授。韓国・朝鮮文学。業績として, 渡辺直紀・黄鎬徳・金応教編 戦争する臣民, 植民地の国民文化―植民地末朝鮮の言説と表象 (ソウル:ソミョン出版, 2010)(共編著)、朴光賢ほか編 移動のテキスト, 横断する帝国 (ソウル:東国大学校出版部, 2011)(共著)、林志弦ほか編 近代韓国, 「帝国」と「民族」の交差路 (ソウル:本とともに, 2011)(共著)、李相雨ほか著 戦争と劇場―戦争からみた東アジア近代劇場の文化政治学 (ソウル:ソミョン出版, 2015)(共著)、宮下志朗・小野正嗣編 世界文学への招待 (東京:放送大学振興協会, 2016)(共著)など。
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