アジア系アメリカと戦争記憶: 原爆・「慰安婦」・強制収容 Tankobon Hardcover – July 31, 2017
by 中村 理香 (著)
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「アメリカ帝国」への批判的視座から、日本の植民地支配や戦争犯罪、軍事性暴力を問う北米アジア系の人々の声を、日系や在米コリア系の作家や運動家などの言説をとおして検証する。太平洋横断的なリドレスの希求と連結を開く可能性を探る力作。
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327 pages
Language
Japanese
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Product description
内容(「BOOK」データベースより)
「アメリカ帝国」への批判的視座から、日本の植民地支配や戦争犯罪、軍事性暴力を問う北米アジア系の人々の声を、日系や在米コリア系の作家・研究者・政治家・運動家などの言説から検証する。そして、それらの語りが、太平洋横断的なリドレスの希求と連結を拓く可能性を提示する。
著者について
成城大学経済学部教授。東京大学大学院人文科学研究科を経て、アメリカ・ラトガース大学英語圏文学科博士。専攻はアジア系アメリカ研究。共著に Trans-Pacific Japanese American Studies (University of Hawai‘i Press)、『憑依する過去』(金星堂)、『アジア系アメリカ文学を学ぶ人のために』(世界思想社)、『ネイションを超えて』(岩波書店)、訳書にダグラス・ブリンクリー『ローザ・パークス』(岩波書店)など。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
中村/理香
成城大学経済学部教授。東京大学大学院人文科学研究科を経て、アメリカ・ラトガース大学英語圏文学科博士。専攻はアジア系アメリカ研究(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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Product Details
Publisher : 青弓社 (July 31, 2017)
Publication date : July 31, 2017
Language : Japanese
Tankobon Hardcover : 327 pages
ISBN-10 : 478723420X
ISBN-13 : 978-4787234209
Dimensions : 5.16 x 0.91 x 7.64 inches
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目次
アジア系アメリカと戦争記憶 原爆・「慰安婦」・強制収容
アジア系アメリカと戦争記憶 原爆・「慰安婦」・強制収容
中村 理香(著)
凡例
はじめに
序章 二つの戦争展と被害/加害の記憶
1 スミソニアン原爆展とニコン「慰安婦」展から見えるもの
2 二重視点と生産的相対化の可能性
3 連結が開く可能性――複数の暴力を語ること
4 なぜ「日系とコリア系アメリカ作家」なのか
5 グローバル世界のなかの「アメリカ・マイノリティ」という存在
6 本書の構成
7 太平洋横断で見る戦争記憶(ルビ:トランスパシフィック・ウォーメモリーズ)
第1部 アジア系アメリカと「慰安婦」言説――「日米二つの帝国」という語り
序 「特集号」・決議案・追悼碑――アジア系アメリカの三つの応答
第1章 アメリカで日本軍「慰安婦」問題を言説化すること――「特集号」の問いかけ
1 一九九〇年代アメリカの人種・ジェンダー・戦争記憶と「慰安婦」問題
2 複数の暴力と批判的アジア系アメリカ研究
3 ポストコロニアリズムの問題提起とアメリカのマイノリティ研究
4 「不安を生じさせる知」――K・チュウと在米アジア系「慰安婦」言説での脱アイデンティティのポリティクス
5 L・カンと在米コリア系「慰安婦」言説での「アメリカ的主体」であることへの問い
6 L・ヨネヤマと「日本の戦争犯罪のアメリカ化」の両義性
第2章 二つのリドレス――マイク・ホンダとアメリカの正義の限界
1 日系リドレスとアメリカの正義の聖典化
2 アメリカ・マイノリティの二重性とトランスナショナルな連結
3 マイノリティ政治家と正義の限界
第3章 (不)在を映し出す場としての在米「慰安婦」追悼碑(ルビ:メモリアル)
1 北米の「慰安婦」碑をめぐる日系人と在米日本人の反応
2 他者化的視線と在外外国人の応答
3 「他国の暴力」と(不)在を映し出す碑
4 「対話の場」としての「慰安婦」追悼碑
第2部 複数の暴力と連結が開く可能性――日系とコリア系北米作家の描く「祖国(ルビ:アジア)の戦争」
序
第4章 「二つの帝国」と「脱出・救済物語」の領有/攪乱――ノラ・オッジャ・ケラーの『慰安婦』
1 「脱出記」の攪乱――多文化主義ナショナリズムとジェンダー
2 「アイ・アム・コリア」――「女」・国家/帝国と殉死
3 移民・国家/帝国――脱出記とディアスポラの語り
第5章 「加害者の物語」――チャンネ・リーの『最後の場所で』が示す「慰安婦」像と「正しくない被害者」の心的損傷
1 複数の軍事帝国主義と性の支配――被害と加害の重層化
2 「加害者の物語」と心的損傷
3 『最後の場所で』での「慰安婦」の表象
4 ハタの回想に見る「慰安婦」表象の問題点
5 加害の記憶とトラウマの乗っ取り
第6章 国家記憶の統合/断絶としての人種暴力――ジョイ・コガワの『おばさん』における長崎・強制収容・先住民
1 他者化から連結へ――多文化主義時代の北米アジア系文学での「祖国の戦争」
2 『おばさん』と「日系カナダ」における祖国の切断/回復
3 「私たちはカナダ国民だ」――同化主義ナショナリズムと祖国の切り捨て
4 「桃太郎はカナダの話だわ」――多文化共生と出身国文化の回復/取り込み
5 「被爆者としての母」と人種的断絶/連結
6 「(脱)ナショナル」としての被爆言説
第7章 祖国の惨苦を聞くということ――ノラ・オッジャ・ケラーの『慰安婦』が描く母の戦争と追悼という語り
1 『慰安婦』での「コリアン・アメリカン」という視点
2 被害の不可視化と認識論的暴力
3 自己/他者の棄却と母の回復
4 「名を刻み、記憶せよ」――追悼の二つのかたちとシャーマニズム
5 死者の言葉を聞く/語るということ
6 結語――「戦争犠牲者」としての母/祖国の回復とその問題点
7 「特攻」の再表象と他者の馴致
初出一覧
引用参考文献
おわりに
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著者紹介
中村 理香
略歴〈中村理香〉米国ラトガース大学英語圏文学科博士。成城大学経済学部教授。専攻はアジア系アメリカ研究。
関連キーワード
韓国人(アメリカ在留)太平洋戦争(1941〜1945)慰安婦日本人(アメリカ在留)
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『アジア(中村理香著)系アメリカと戦争記憶
─原爆・「慰安婦」・強制収容』
評者:金 富 子
周知のように,1991 年に韓国の金学順の告発によって始まった日本軍「慰安婦」問題解決運動は,加害国日本のみならず,国連を含めたグローバルなイシューとして広がり,その波は米国にも及んだ。米国にはコリア系移民が数多く住み,「慰安婦」碑の建立も含めて運動の一翼を担ってきた。また日系人のなかにはマイク・ホンダ下院議員のように,解決に尽力した人々も少なくない。北米では 1970 年代から戦時の日系人強制収容に対する戦後補償運動がおこり,
1980 年代後半に日系人たちが米国及びカナダ政府から,不正を正すの意をもつ「リドレス」を勝ち取ってきた歴史があった。
しかし,こうした戦争被害に対する北米アジア系の多彩な声が日本に紹介されることは,一部を除いてあまりなかった。本書は,原爆投下,日本軍「慰安婦」制度,日系人強制収容を中心とする戦争暴力の被害者の側に立つ「アジア」を出自とした北米移民たち─研究者・政治家・運動家・市民・小説家─ が太平洋横断的(トランスパシピック・)な戦争記憶(ウォーメモリーズ)」(43 頁)をどのように表象したのかについて,その多様性や複雑性,可能性と限界を比較検証したものである。
1 本書の構成と概要まず,本書の構成は次の通りである。
序章 二つの戦争展と被害/加害の記憶第 1 部 アジア系アメリカと「慰安婦」言説─
「日米二つの帝国」という語り第 1 章 アメリカで日本軍「慰安婦」問題を言説化すること─「特集号」の問いかけ第 2 章 二つのリドレス─ マイク・ホンダとアメリカの正義の限界第 3 章 (不)在を映し出す場としての在米
「慰安婦」悼碑追(メモリアル)第 2 部 複数の暴力と連結が開く可能性─日系とコリア系北米作家の描く「祖国(アジア)の戦争」第 4 章 「二つの帝国」と「脱出・救済物語」の領有/攪乱─ノラ・オッジャ・ケラーの『慰安婦』第 5 章 「加害者の物語」─チャンネ・リーの『最後の場所で』が示す「慰安婦」像と
「正しくない被害者」の心的損傷第 6 章 国家記憶の統合/断絶としての人種暴力─ジョイ・コガワの『おばさん』における長崎・強制収容・先住民第 7 章 祖国の惨苦を聞くということ─ノラ・オッジャ・ケラーの『慰安婦』が描く母の戦争と追悼という語り
次に,概要をみよう。序章では,右翼の抗議をうけ中止圧力にさらされた東京のニコンサロン「慰安婦」写真展(2012 年),米国で在郷軍人会などの介入で大幅縮小を余儀なくされたスミソニアン博物館の原爆展(1995 年)という二つの事例をとりあげ,中止圧力をかけた日・米の保守派の発言が自国の被害への固執と加害の徹底的な否認という点で「合わせ鏡」のような類似的思想だと指摘し,こうしたいびつな自画像に向き合い,「被害への共感」と「加害の省察」という二つの視点から連結の回路を探ることが本書の提起だとする。
そのうえで著者は,「原爆投下」と「慰安婦」制度,あるいは「日系人強制収容」と「慰安婦」制度という異なる歴史的背景をもつ「複数の暴力を語る」ことは相互免責の危険性を伴うが,これを自覚しつつ,あえて「自国の被害と加害」を「同時並行的に語る」ことが一面的な被害者あるいは加害者という自己認識を再考するのに有効に作用する可能性を探るため,次のように北米アジア系の人々の戦争被害への反応を省察する。
第 1 部では,朝鮮人女性を対象とした日本軍「慰安婦」制度への「アジア系アメリカ」の応答に関して,「アジア系アメリカ学会誌」(JAAS)の特集号「韓国・朝鮮人「慰安婦」をめぐって」(2003 年,以下特集号),日系米国人元下院議員のマイク・ホンダ,在米コリア系を中心に米国で建立された「慰安婦」追悼碑への在米日本人・日系人の事例をとりあげる。
特集号(1 章)は,ポストコロニアル理論や欧米フェミニズム批判の洗礼をうけ米国マイノリティ研究に従事した第一世代のコリア系 2 人と日系 1 人の研究者が,1990 年代以降の米国アジア系「慰安婦」言説のありようを批判的に検証したものであるが,著者はこの「日本の戦争犯罪のアメリカ化」の言説的過程を,日系人戦後補償に代表されるアメリカの正義ではなく,「日米二つの帝国主義」という批判的な視座から捉えようとしたと高く評価した。
2 章では,日系人強制収容のサバイバーであり,対日「慰安婦」決議を推進したマイク・ホンダ議員に焦点をあてる。彼が,日系人としてはリドレスを勝ち取った「市民的自由法」にみられる米国の「揺るぎない謝罪」と対比させ日本の「不完全な謝罪」を強調することで米国の道義的優位を称揚した一方,国会議員としては進行中の米国の軍事加害行動に沈黙を守ったと書評と紹介いう正義の限界を浮き彫りにした。著者は,こうした二重性を乗り越える可能性を,米国マイノリティの軍事行為の犠牲者へのトランスナショナルな連結の試みのなかに見出した。
3章では,米国に立つ「慰安婦」碑の設置に対し,否認/支持以外の在米日本人や日系人の複雑な反応を考察した。日本の戦争加害を擁護しないが日系人への偏見や人種暴力として跳ね返ることへの危惧,日系人が北米で生き残る過程で内在化させた「反日感情」に基づき日本の戦争犯罪を他者化して批判する姿勢への懸念,他国(日本)の帝国主義的軍事性暴力は批判するのに自国(カナダ)の先住民女性への植民地主義的「人権侵害」に触れないことへの異論などだ。また,公の場での碑のあり方として,
「慰安婦」制度という他国の戦争被害を記憶する行為が米国の軍事(性)暴力の抹消とセットになっていることを指摘し,碑を対話の場とするために碑への異論や批判に耳を傾け,自己を振り返る努力を提言する。
第2部では,北米という「非当事者第三国」である「移民先母国」で刊行された「祖国(アジア)の戦争」に関する三つのアジア系の小説─ 在米コリア系作家ノラ・オッチャ・ケラー『慰安婦』(1997 年),在米コリア系作家チャンネ・リー『最後の場所で』(1999 年),在カナダ日系作家ジョイ・コガワ『おばさん』(1981 年) ─ を並立的に読むことで,これらに刻まれた「アジアの戦争」がもつ被害と加害という多面的な戦争記憶への読み解きを試みた。
前半の 4 章・5 章は対になっている。まず,『慰安婦』(4 章)では,日本軍「慰安婦」の「アキコ」がのちに夫となる白人米国人宣教師に救出され米国に渡るというありきたりな「救済物語」にみえながら,新たな支配の場として「国家・家庭」を書くことで「慈悲深い第三世界の解放者」アメリカ国家の自己表象への疑義と,
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軍隊性奴隷制度/婚姻制度の表裏一体性を可視化した,と評価する。
次に,『最後の場所で』(5 章)は,植民地期の朝鮮人「自発的対日協力者」でいまは米国に移民したハタを主人公に,惨殺された「慰安婦」「K」の身代わりに韓国から迎えた養女サニーを通じて「日米二つの軍事帝国」による性の支配を描く物語だ。サニーは在韓黒人米兵と韓国人女性間に生まれたため,米国内で非抑圧側の黒人米兵が韓国では性搾取側に回るという米国マイノリティの二重性も示唆し,「重層的視点から帝国のマイノリティ体験の戦争体験を言説化しようとする努力」(203 頁)と評価する。しかし,ハタの回想の「慰安婦」表象では「K」が民族的純潔性を象徴するファンタジーとして描かれる一方,生き残った女性らの被害は周縁化された問題点も指摘する。著者は「協力者」のような名乗り出が難しい記憶を言語化したこの小説を「きわめて重要」と高く評価した。
後半の 6 章・7 章もセットだ。日系人強制収容と長崎への原爆投下を結びつけて描いた『おばさん』(6 章)では,日系人強制収容という人種暴力に対し「カナダ国民」としての市民権を盾に戦後補償を求め,そのため日本という出自を否定する叔母でリドレス活動家エミリーが登場し,小説の最後に「長崎で被爆した母」が開示される。先住民ゆかりの地での母の供養を通じて長崎への原爆投下とカナダ先住民への植民地主義的人種暴力を連結させ,カナダという国家が後者への暴力のうえに成立した事実が示唆されるとする。著者は,リドレス運動というマイノリティによる国家への希求が描かれる一方,
「被爆した母」を通じて同質的国家記憶に統合されない「脱ナショナル」な記憶を呼び起こしたと読み解く。
7 章では,『おばさん』との対比で前述の『慰安婦』を再論し,二つの小説が示す母の被害(被爆者/「慰安婦」)を北米アジア系の娘が語るという「代理表象」としての言説行為の両義性を検証する。両者は,北米オリエンタリズムが産出した「怪物的アジア人の母」の書き直しとしての「母の再表象」である一方,「女性化され人種的刻印を付された母国」の体現に陥る危険性を指摘する。
2 成果と疑問
評者は,第 1 部第 1 章の論考や第 2 部の当該小説を読んでいないことを断りつつ,以下成果と疑問を述べていきたい。
まず,評価すべきは,「複数の暴力を同時並行的に語る」という著者の問題意識と方法論だ。
このうち著者が重視するのは,「自国の加害行0 0 0 0 0 0 為0 」(29 頁,傍点ママ)への向き合いにあるのは明らかだ。「被害者」という「固定化された視点やそこから生じる純潔主義的思考」,つまり「被害を語ることの権力性」(29 頁)に陥らないため,「加害者」という自己認識をもつこと,具体的には「被害体験にまつわる言説を,「加害者」という位置から見つめ直す」(29 頁)ことの可能性を北米アジア系の戦争記憶表象から探っている(ただし論拠に,実証性が疑われている朴裕河の著作をとりあげるのはいかがなものか)。
1990 年代の日本では,「慰安婦」制度への日本軍の関与を認めた「河野談話」(1993 年),
「植民地支配と侵略」への反省とお詫びを含む「村山談話」(1995 年)が公式に表明された。両者は日本政府が「加害者」としての自己認識を国内外に表明したものだ。しかしその後 30 年間,歴史修正主義者たちによる「慰安婦」バッシングや嫌韓ヘイトスピーチが日本社会を席巻し,メディアや一般市民にも広がった。「戦後 70 年安倍談話」(2015 年)は,両談話を上書きして自己認識のなかの「加害者」を消し去り,「被害者」に収斂しようとしたからだ。
この「同じ時代」である 1990 年代以降,北米アジア系の「同じ戦争」に対する記憶がどのように被害/加害という重層的な自己認識をもっていたか,あるいはもちえなかったのか,その可能性と限界を検証しようとした本書は,日本社会の過去と現状への鋭い問題提起になっている。
第二に,こうした自覚的な方法論に基づき,非当事国の北米で,アジア系の研究者・政治家・運動家・市民らの研究や言動(第 1 部),3 人の小説家による作品(第 2 部)に関して,日本の戦後補償運動もふまえて幅広く比較検証するとともに,こうした反応が出てきた北米社会の歴史的文脈を丁寧に示したことである。
日本軍「慰安婦」問題が 1990 年代の米国で関心事になったのは,それ以前の公民権運動や女性運動の進展がもたらした人種やジェンダーをめぐる人権意識の向上を背景に,アカデミズムで「人種・階級・帝国主義とジェンダーの交差」がキーワード化したこと,また冷戦の終結,第二次世界大戦終結 50 周年をきっかけに日本の戦争犯罪への関心が高まったこと,しかもこの過程はマイノリティの国家参与の形態として同化主義から多文化主義が主流になる過程であり,アジア系が社会的・経済的に地位が向上したことなどが随所で示され,北米の事情をよく知らない者にも理解しやすいものになっている。
そのうえで評者にとっては,第 1 部 1 章で研究者たちが,自己サバルタン化(研究者が弱者と自己同一化することで学究的権力を得る)構造への自戒,コリア系にありがちな被害当事者と過剰な一体化がまねく他者(被害者)の体験領有の危険性への自省,「日本の戦争犯罪のアメリカ化」の可能性と陥穽が語られたのが興味深かった。
以上のように評者は多くを学んだが,疑問も書評と紹介なくはない。まず,著者が「自国の加害行為」という時の「自国」のあいまいさである。それ以外に「母国」「祖国」などが出てくるが,読者にはわかりにくい。
たとえば,チャンネ・リー『最後の場所で』が描く被害は朝鮮人「慰安婦」であり,加害は朝鮮人対日協力者なので,同じ朝鮮民族内部の被害と加害であり,さらに養女サニーを通じて「日米二つの軍事帝国」による性の支配が描かれた(5 章)。一方,在カナダ日系作家ジョイ・コガワ『おばさん』が描く被害はカナダでの日系人強制収容と米国の原爆投下による被曝であり,加害はカナダの先住民族への植民地主義的暴力が示唆されるが,日本という「自国の」加害は出てこない(6 章)。著者が「原爆投下という日本の被害体験にまつわる言説を,「加害者」という位置から見つめ直す」(29 頁)という時の「加害者」とは誰なのか。『おばさん』では日本(人)の被害は示されるが,日本(人)の加害は示されていない。強制収容は日本の戦争加害を日系人が不当にも引き受けさせられた連結の結果だが,その起源となった日本の加害が小説ではどう描かれ,また描かれなかったのか,よくわからなかった。
次に,日系とコリア系において,戦時の加害と被害の関係性は同じなのだろうか。たとえば,侵略側である日本の場合は「加害のなかの被害」だが,被侵略側である朝鮮の場合は「被害のなかの加害」であり,構造的には後者は前者によって引き起こされたものだ。したがって,両者を比較検討する前提それ自体が問われなければならないのではないだろうか。
なお,本書の随所で日本の戦後補償運動が参照され有益だが,本来ならば著者の問題意識に近いと思われる,加害国日本で自国の加害に取り組んだ「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」(2000 年)の事例が参照されていないの
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はなぜだろうか。残念に思った。
また,本書の問題提起に関連する試みとして,韓国でも「慰安婦」問題解決運動をしてきた女性運動がベトナム戦争における韓国軍の性暴力加害に取り組み,〈平和の少女像〉(「慰安婦」像)をつくった彫刻家夫婦がベトナム戦争の韓国の加害を問うピエタ像を彫像し,対日協力者(親日派)の研究をしてきた民族問題研究所が植民地主義の清算と東アジアの平和をめざして被害・抗日・親日(民族内加害)を展示する植民地歴史博物館を開館したことなども付け加えたい。本書の結びで,「他者の理解と表象において,自らの理想に合致しない当事者0 0 0 とどう向き合うのかという困難な問い」(傍点ママ)を「日米の戦争暴力の犠牲者やサバイバーに対する正義とどう結びつけていくのか」と問いかけたが,これに大いに共感するとともに,日本で本書が広く読まれ,こうした研究や取り組みが広がることを願っている。
(中村理香著『アジア系アメリカと戦争記憶 ─ 原爆・「慰安婦」・強制収容』青弓社,2017 年 7 月,327 頁,定価 3,000 円+税)
(きむ・ぷじゃ 東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授)
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