코리안 아메리칸 문학과 일본어의 장소
コリアン・アメリカン文学と日本語の場所
西成彦 Nishi Masahiko
一、サンパウロ市ボン・レチーロ地区
たった三ヶ月ではあったが、南半球は秋から冬にかけてにあたる五月から七月まで、サンパウロ大学の日本文学科に客員講師として招かれ、「浦島太郎と日本」というテーマで授業を担当させていただいたのが、二〇〇二年。ちょうど日韓ワールドカップが開催されていた時期に重なった。そして、なんとブラジルとドイツとの決勝戦は、旅先のブエノスアイレスのホテルで観戦する(爆買いするブラジル人観光客に混じって)ことになった。
そんな南米滞在期に驚きとともに受け止めた知見の数は、何本手があっても数えきれないくらいだが、日韓ワールドカップで韓国が三位になったこともあり、サンパウロ市内の韓国人のプレゼンスを実感したというのは、そのひとつだった。
かつて「日本人街」と呼ばれ、ハイウェイの上にかかった陸橋がいまでも「大阪橋」の名で呼ばれているリベルダージ一帯も、いまでは「東洋人街」と呼称も改められ、中華料理や焼き肉ハウスなどがあったし、台湾人が経営する菓子パン屋があったり、中国人が鉄板の上で焼きそばを焼いて、屋台気分を味わえたり、にぎやかさはいまだ健在である。
しかし、知人から聞いたところによると、李承晩時代の一九五九年に外交協定が結ばれ、朴正煕クーデタ後の一九六三年には、貿易協定に加えて、移民協定もまた結ばれて以降、続々と集まり始めた韓国系移民の多くは、サンパウロ市内でもリベルダージではなく、ルース駅北側のボン・レチーロ地区に住みついたとのことだった。
そこは二〇世紀に入ってから急増した東欧系ユダヤ人がサンパウロにも流れこみ、いわゆる「スウェット・ショップ」を稼働させて、ブラジル国内の服飾産業の拠点を形成した地区で、いまでもウェディングドレス専門店などが軒を連ねる華やかな街路を形成している。
二〇世紀ブラジル・モダニズムの巨匠で、一九二八年の「食人宣言」Manifesto Antropófagoでも有名なオズヴァルド・ヂ・アンドラーヂの記念館もそこにあり、まさにサンパウロのモダニズムを支えたのが、ボン・レチーロ地区だった。要するに、そこはニューヨークで言えば、ロワー・イーストサイドやグリニッジ・ヴィレッジ、あるいはハーレム地区に相当する場所だった。
しかし、そんな東欧系ユダヤ人が現地で成功をおさめ、世代交代を進めると、彼らはペルディーセス区の高級住宅地に移り住み、そこに新しくやって来た韓国人が、ユダヤ人の経営する「スウェット・ショップ」で働くようになったとのことだ。その結果として、ボン・レチーロには、コシャー料理を食べさせるユダヤ・レストランもあれば、コリアン・レストランも並ぶという現状がある。
そして、その二〇〇二年以降、何度かサンパウロを訪れているが、そのたびにボン・レチーロには足を運ぶようにしている。そして、ここ十年ほどは韓国系のブラジル人が経営する店ではたらいているのは、ボリビア人の労働者だったりするとのことで、ニューヨークのユダヤ人街がいつの間にかヒスパニックの集住地区になっていったのと同じだなと思った。
二、「セニョール・カイーシャ」
その二〇〇二年のサンパウロ滞在期、私は渡航費滞在費に関しては国際交流基金の支援を受けていたので、宿舎も地下鉄(緑線)のブリガデイロ駅徒歩三分のウィークリー・マンションを手配していただいていたのだが、私はブラジルのポーランド人やユダヤ人に関しても興味を持っていた(★①)から、その方面をさぐっているうちに、サンパウロには「ペルスペクティヴァ」というユダヤ系の出版社があって、その出店がまさにブリガデイロ街の坂の途中にあったのだった。
さっそく出かけてみたら、垂涎ものの本がずらりと並び、ブラジル一のユダヤ系出版社の名にふさわしい本屋だとすぐに納得した。そこでみつけた『イディッシュ短篇』O conto idiche(一九六六)は、一九世紀イディッシュ文学の巨匠から、ノーベル賞作家のアイザック・バシェヴィス・シンガー、そしてブラジルを代表するイディッシュ作家、ロザ・パラトニクまで、おもだったイディッシュ作家は網羅しつつも、ブラジル色は出すように工夫された魅力的な一冊だった。後に私が『世界イディッシュ短篇選』(★②岩波文庫、二〇一八)を編むときに念頭に置いた何冊かのうちの一冊は、これだった。
しかも、同アンソロジーには、パラトニクとも親しかったポーランド出身のイディッシュ作家、メイル・クチンスキが長い序文を寄せており、じつはこのクチンスキに関しては、その娘がブラジルの治安警察に拘束され、「失踪者」desaparecidaとなる運命をたどったことがあり、その娘を家族挙げて助けようと奔走したさまが、作家の息子であるベルナルド・クシンスキーによって「ルポルタージュ」に描かれて大きな話題となり、これは『K.消えた娘を追って』(★③)として日本語にも訳されている。たとえば、アムネスティ・インターナショナルなどを通じた人権運動が築き上げた国際的なネットワークの産物とも言えるが、何度かのサンパウロ滞在中にお目にかかったことのある訳者の小高利根子さんから同書を送っていただいたときには、その偶然に驚きもしたのだった(★④)。
しかし、その日、それ以上に驚いたことがある。ペルスペクティヴァの出版物のなかにイサン(李箱)の『カラスの眼(★⑤)』Olho de corvo(一九九九)なる一冊が含まれていたのである。これには、ブラジルが誇る現代詩人、アロルド・ヂ・カンポスが序文を書き(★⑥)、日帝占領期のモダニスト詩人として、あの李箱の代表作が集められて一冊になっていたのだった。日本でもその後、李真碩訳(★⑦)として紹介される李箱の「烏観図」が「カラスの眼」と訳されていたというわけだ。
そして、この出会いから間もなくして、ボン・レチーロ地区における東欧ユダヤ系移民と韓国系移民の深いつながりを私なりに実感することになったのだった。
私は現地の日系人にもその話をしたが、彼らはこのことにおおむね無関心で、すでにブラジル人の信頼を勝ち得ていた(「ガランチード」garantidoという形容詞が広く用いられた)日系人が、新参者の韓国人のために「保証人」garanteになってやったことがあるというような、やや上から目線の韓国人像を感じることができた程度だった。
三、南米のジャパニーズとコリアン
その後、私はブラジル滞在期にお目にかかることのあった作家・松井太郎さんの主要作品を日本の出版社から刊行できるよう、細川周平さんとともに、国内を奔走したりもして、『うつろ舟』と『遠い声』の二冊(★⑧)を世に出すことができた。それも松井太郎さんの生前に(氏は二〇一七年に他界された。享年九九歳)。
しかし、他方で後の『外地巡礼/「越境的」日本語文学論』(★⑨)でひと区切りつけることのできたプロジェクトの一環で、「南北アメリカ移住地の文学」と「日帝植民地の文学」をともに視野に入れることで、『〈外地〉の日本語文学選』全三巻(★⑩)で編者の黒川創さんが示された「〈外地〉の日本語文学」という枠組みの拡張を試みていた私は、ブラジルやアルゼンチンをはじめとする中南米諸国の韓国人についても、機会があれば、ぜひ知っておきたいとひそかに考えていたのだった。
そんななか、『異郷の昭和文学――「満州」と近代日本』(★⑪)以降、ポストコロニアル批評をふまえた日本語文学研究を牽引してこられ、一九八〇年代に韓国の東亜大学校で日本文学を講じられていたころから培われていた韓国とのつながりを有効に活用されて、在日朝鮮人の文学なども積極的に論じてこられた川村湊さんが、二〇一一年度から一三年度まで進めてこられた「南米日系移民および韓国系移民による文学の総合的研究」(科研費補助金・基盤研究⒞)の成果の一端として、日本では『増山朗作品集・グワラニーの森の物語』(★⑫)、『ハポネス移民村物語』(★⑬)などがあるが、これとは別に、同プロジェクトで研究協力者をつとめられた金煥基【るび:キムファンギ】(韓国東国大学校)さんが編者となって『ブラジル・コリアン文学選集』브라질(Brazil)코리안 문학선집(★⑭)と『アルゼンチン・コリアン文学選集』브라질(Argentine)코리안 문학선집(★⑮)が全四巻というボリュームで刊行された。詩や小説から随筆・評論まで網羅した手の行き届いたもので、そのようなものが韓国政府の助成を得て刊行される韓国と、松井太郎さんのような傑出した文才を持つ移民作家の作品選集を出版市場に乗せて刊行するしか、移民文学の紹介機会が得られない日本とのあいだの差は、なかなか埋められない感じがした。日本学術振興会が、こうした国境を越えた共同研究を助成してくれたというだけでも御の字とするしかないのだろうか。
じつは『ブラジル・コリアン文学選集』の「詩・小説」の巻には、金煥基さんの解説文が掲載されていて、ざっと読ませてもらったが、それまで韓国人のブラジル移住が始まったのは、一九六三年以降だと聞かされていた私にとって目を疑うような事実が、そこには書かれていたのである――「一九五三年に韓国戦争が終わったころ、釈放された反共捕虜五五名(中国人五名を含む)のブラジル行き」(★⑯)と。
そして、まさにこうして目を開かれた直後に、米国の韓国系作家、ポール・ユーンの『スノウ・ハンターズ(★⑰)』Snow Hunters(二〇一三)をたまたま手に取った。
ポール・ユーンと言えば、いまでは初期短篇集『かつては岸』Once the Shore(二〇〇九)が藤井光訳(★⑱)で読めるが、当時は、いきなり『スノウ・ハンターズ』に手を延ばすしかなかった。
きわめて切り詰めた言葉の魔力に魅せられるようにして一気に読み通したのが、二〇一四年の二月だったと思う。カーニバルの時期にブラジルを訪問した、ドバイ経由のエミレツ航空の機内であった。
本論では、この『スノウ・ハンターズ』の魅力の一端にも迫りたいと思うのだが、まずはポール・ユーンが登場する以前のコリアン・アメリカン作家たちを、要点をおさえながらふり返っておこうと思う。
四、コリアン・アメリカン文学の勢い
現在の韓流小説ブームに比べることはできないとしても、二〇〇〇年代に入ってから、日本では、アジア系アメリカ文学の一翼を担うコリアン・アメリカンの文学への関心が少しずつではあるが高まってきたと言える。小林富久子監修の『憑依する過去――アジア系アメリカ文学におけるトラウマ・記憶・再生(★⑲)』(二〇一四)は代表的なもので、日系作家の場合には、第二次大戦期の収容体験や、原爆被災体験、韓国系であれば、日本軍慰安婦体験から朝鮮戦争体験全般、さらにはロス暴動での被害体験などの「トラウマ的な記憶」に対して文学がどのような「再生」を準備していったのかを論じた読み応えのある論文が並んでいて、多くのことをそこから勉強させていただいた。
日本におけるアジア系アメリカ文学に対する関心は、UCバークレーで教鞭をとられていたエレイン・キムの『アジア系アメリカ文学(★⑳)』Asian American Literature, An Itroductio to the Writings and Their Social Context(一九八二)の翻訳刊行(二〇〇二)が、ひとつの目安となるが、同じ二〇〇二年には、一九六三年のソウル生まれで、三歳のときに家族で米国に移住された、一九九五年に『ネイティヴ・スピーカー』でデビューされたチャンネ・リー(李昌來)の『ジェスチャー・ライフ(★㉑)』A Gesture Life(一九九九)が日本に紹介され、一九五一年のプサン生まれで、朴正熙クーデタにあったあと、国を離れ、家族でハワイなどを転々とした後に、一九六四年にベイエリアに移り住み、UCバークレーでは、映画理論を学ぶなどして、映像作家としても期待されていたテレサ・ハッキョン・チャが三一歳での急死直前に残した『ディクテ(★㉒)』Dictee(一九八二)の翻訳刊行(二〇〇三)がこれにつづいた。
コリアン・アメリカン文学が、金學順【るび:キムハクスン】の名乗り以降、フェミニストのあいだでは国際的な論点を提供することになった「日本軍慰安婦問題」に関して、テレサ・ハッキョン・チャはとくに何も語らないまま亡くなったが、その諸作品を受け止める読者の多くは、テレサ・ハッキョン・チャの提示した問題と「日本軍慰安婦問題」との密接な関連性に注目した。
また『ジェスチャー・ライフ』は、日本軍兵士として従軍したさきで、朝鮮人軍慰安婦と心を通わせながら、彼女の命を守ってやれなかった過去を背負いながら、渡米した男を主人公にしていたほか、論集『憑依する過去』のなかでは、コリアン・アメリカンとして、いちはやく、「日本軍慰安婦問題」をとりあげたノラ・オッジャ・ケラーの『慰安婦★㉓』Comfort Woman(一九九八)もまた大きく取り上げられており、「日本軍慰安婦問題」をめぐる日韓の葛藤は、米国在住のコリアン系市民だけでなく、作家たちの深いコミットをも促し、その一部は、日本にも紹介されつつあったのだ。
ただ、とくに『ディクテ』に関しては、そのフェミニズムに透かし見ることのできるポストコロニアルな観点に注目しつつ、一文を記したことがある(★㉔)ので、そのなかでテレサが、「満洲國」の間島で学校教師をしていた時代の母親(ホ・ヒョンスン)がハングルで書き残した当時の「日誌」の周囲でざわめいていたであろう日本語や中国語を想起する上で、テレサ自身が、韓国=朝鮮語を「母語」としながらも、フランス語を身につけた英語表現者であった事実との共鳴に注目したことだけ、ここでは紹介しておく。
というのは、二〇〇〇年代に日本で紹介されるに至ったコリアン・アメリカンの表現者にとって、日本語は「祖国の隣国の言語」以上でも以下でもないはずなのだが、彼ら彼女らが親世代との関わりを掘り下げていこうとすれば、「外国語」とは言い切れない「日本語」の位置(=「地位」というべきか)を無視することなどできないのだ。
ノラ・オッジャ・ケラーの『慰安婦』を読みながら、ひとりの日本人として、体が凍りついたのは、たとえば次の箇所だ。
朝鮮人には言葉の才能がある、植民地にされて支配を受けるために生れてきたようなものだと日本人は言う。自分の無能が愉快でたまらないんだね。恐れることも、学ぶべきものも何もないってわけ。でもわたしたちはおかげで救われたんだよ。何を話しても悟られないからね。とはいっても、連中はそんなこと、屁とも思ってなかったんだろうけど。(p. 16)
ところが、主人公の母が、かつて軍慰安所で知り合った仲間のインドクは、「いいかい、お前たち、私の祖国も身体も侵略するな」と「朝鮮語と日本語で」思い切りわめきたて、結局、彼女は「串刺しにされた豚」のように「口から膣まで串を突っ込まれ」(pp. 20-21)て、みせしめのように殺されていったのだ。
主人公の母には、そんなインドクの亡霊(その朝鮮語使用と日本語使用)が、戦後も渡米後も、とりついて離れない。
しかし、この母は、何度も死ぬ思いをしながらも戦後まで生き延び、白人と結婚して、ハワイで子どもを育てることになる(一九六六年生まれの作者は、ドイツ人の父、韓国人の母とともに、三歳の時からハワイに移り住んだ)。そもそも日朝バイリンガルだった彼女が、解放後は、韓国語と英語の二言語をあやつりながら生き延びる。英語圏で公教育を受けた娘は、そんな母を母としていたわり、思いやりながら生きなければならない。それは、娘のベッカーにとっても針の筵を歩むような経験だった。
作者がどこまで『ディクテ』を意識していたかどうかは別として、 『慰安婦』が物語っていることのひとつは、母と娘の言語遍歴だったと言えそうな気がする。何気なく英語で生活をする「アメリカ人」の背後でざわめいている「異言語」の影。
ウィリアム・サロイアンであれ、ジョン・オカダであれ、シンシア・オジックであれ、エドウィジ・ダンチカであれ、米国の移民系作家は、英語を用いながらも、こうした多言語的な環境を描く手段としての英語の活用法に磨きをかける。単一言語使用で何不自由なく生きている人々は、そのみずからの「無能が愉快でたまらない」としか考えられない、そんなお気楽な人々に向けて、複雑な言語遍歴を生き(かされ)てきた人々は、試行錯誤をくりかえしながら、彼ら彼女ら自身の生を語ろうとする。スキ・キム(一九七〇年韓国生まれで、八三年に米国へ移住)の『通訳★㉕』The Interpreter(二〇〇三)なども、まさにそのような小説だったと言えるだろう。
五、植民地主義と養子縁組
ということで、以下、チャンネ・リーの『ジェスチャー・ライフ』を、そこで日本語にあてがわれた役割に注目しながら、読んでみることにする。
チャンネ・リー自身は、精神科医の父に連れられて、三歳で渡米したとのことだが、小説には、「七歳」(新潮社、三二頁)のとき、孤児院から米国にもらわれていった「プサン市生まれの女の子」(八六頁)が登場する。これがどうやら一九六〇年代のことであるようなので、この「戦災孤児」の「少女」は、性別が違いはするが、作家のチェンネ・リーの「分身」のような扱いを受けているとも言えそうだ。
ただ、作家は、家族ぐるみで渡米したのに対して、少女の方は、ひとりぼっちで、しかも米国では「信頼される日本人」として知られる独身の中年男にもらわれてゆく形をとっている。同じ韓国人の渡米でも、あまりにも境遇は対照的なのだ。
しかも、この「養子縁組」の事例は、「養子縁組」なるものが社会的に広く認められている米国においても、かなりの「異例」であったらしく、何より「独身の男性が養子を認められるのはきわめてまれ」(八五頁)だったし、「女の子には母親の存在が何より大切だ」(八六頁)と言われることが多いのに、そうした社会通念に反して、養父は「女の子がいいと言い張った」(同前)のだ。それこそ「養子縁組」の制度を「幼児虐待」のために利用したかと疑われかねない不穏な選択を、養父はみずから下し、社会もまたそれを容認してしまったわけだ。じつは、小説はこの「養父」を話者に据える一人称小説として書かれている。
この血のつながらない父と娘は、「サニー」Sunny(それが養女に与えられた名前だ。「スニ」かもしれない)がまだ幼かった頃はうまくいっていたようで、「サニー」は養父の希望に応え、ピアノの稽古にも余念のない時期もあった。ところが、高校生になるころから次第に養父を避けるようになった彼女は、とうとう「あなたにはあたしが必要だった。でもその逆は、一度もなかった」(一一一頁)という捨て台詞を吐いて、家から出て行ってしまう。
その後、彼女は大きなお腹をして戻ってきて、養父に中絶のためのサポートを求めたり、かと思えば、シングルマザーになって、ふたたび養父の手助けを求めにやってきたりで、最後には主人公も「おじいちゃん」気取りで「孫」に接するようになったりもするのだが、まずひとつには、「養子縁組」の物語として抜群に面白い作品だった。三〇歳代の男性が書いた小説だとは思えない老練さがある。
ただ、この小説を「コリアン・アメリカンの文学」として読もうとするなら、ここで終わらせるわけにはいかない。
一九六〇年代に合衆国にやってきて、「この国に留まる決心をし〔中略〕たときには私の国籍の問題はどこかにいってしま」(八頁)ったという小説の主人公は、まわりのアメリカ人からも「どうして日本に帰って余生を過ごそうと思わないのか」(二三頁)などと言われつつ、老境を迎えようとしている。ところが、じつは彼自身もまた、そもそもは「日本人の養子」として育てられた過去を持つ「コリアン」だった。
かつて彼を「養子」として引き取ったのは、「ギアを製造する工場を営む子供のいない裕福な夫婦」(八四頁)だったが、もらわれてゆくまで彼が帰属していたのは「動物の皮をなめして脂肪を精製する集団」で、「日本人のように話し、暮らしていたから一見わからなかったかもしれないが、私たちのほとんどはコリアンだった」(同前)というのである。
小説を読み進めると、彼はビルマ戦線の兵営で、朝鮮人慰安婦の女性と「子どものころ使っていた言葉」(二六四頁)を使って話をする場面さえある。要するに、米国にあっては、日本人・日系人の親子としてふつうに受けとめられている二人が、じつは「血」の上ではともに「コリアン」で、なおかつ「ジャパニーズ」としての見かけをかなぐり捨てようとはしないまま、いつしか何不足ない「米国人」として生きるようになっていく。
「日系」も「韓国系」も「中国系」もない「アジア系」といった呼称が、過去の歴史的葛藤を乗り越え、集合的に「米国社会」に溶けこもうとしていた一九八〇年代から九〇年代初頭にかけての空気を深く吸収して育ったチャンネ・リーならではの「アジア系アメリカ人ぶり」が、この小説のなかでは野心的に試されていると言ってもいいのかもしれない。
その後、東アジア地域での歴史認識をめぐる葛藤に呼応するようにして、「アジア系アメリカ人」のあいだに「亀裂」が生じ、今日に至っている米国で、またたとえば韓国で、この小説がどう読まれているのか、そこはきわめて興味深いところだが、いずれにしても「日系」であるか「韓国系」であるかどうかは、本人ほどには周囲が関心を抱かない、そういった米国社会の特徴を逆手に取った作品と捉える以外にないような気もする。
ただ、次のような一節は、日本人として読めばじつに面白いのだが、韓国人も同じように面白がるものだろうか、そこは疑問だ。
一度、ベイエリアから来たという日本人の紳士に〔中略〕会った。〔中 略〕ずっと昔ハワイやカリフォルニアに移住した日本人がいたが、彼の祖父母もそうで、本人はアメリカで生まれていた。私たちは互いの存在を知って嬉しかったはずだ。それなのに思いもかけないぎごちなさが生まれた。人種も年齢も職業も似通っているのだから話すことがたくさんありそうなものだが、会話は変に滞りがちでぎくしゃくした。たがいが紹介されたときから、どうしていいかわからない瞬間があって、たとえば握手すべきなのかお辞儀をしたらいいのかとまどった。(二六頁)
いかにも「日系アメリカ文学」に出てきそうな場面だが、これを「韓国系アメリカ人」が書いたのだ。
ひょっとしたら、この小説は、ハワイ生まれの日系三世作家、ギャレット・ホンゴウ(一九五一年生まれ)に捧げられているから、「日系アメリカ文学」への「なりすまし」を公然と試みた「韓国系アメリカ文学」として読むべきなのかもしれない。
六、トラウマと物神
『ジェスチャー・ライフ』は、韓国系アメリカ人の若手作家が、コリアンの「女の志願者」female volunteer(一八二頁)を正面からとりあげたことで話題を呼んだ経緯があるのだが、今回、この側面について掘り下げることはしない。「若い頃、男女関係で傷ついた男」が、晩年に入ってなお、どこまで過去をひきずるものかを探ろうとした小説として、この作品を読みたいと思うからだ。前便で触れた「養女」を取るという人生の選択も過去の傷と深く結びついている。
「訳者あとがき」にも書かれていることだが、「この本を読み終えて真っ先に思ったのは著者の若さだった。三十代前半の若さで、どうしてこういう本を書いたのだろう」(三九三頁)――これは、まさに同感である。
私は森鷗外の『舞姫』(一八九〇)について本を一冊書いたことがあるが、あの小説を鷗外が書いたのは、まだ二〇代だったから、であればこそベルリンでの後味の悪い女性経験は、その生々しい「心の傷」、そして洗っても洗い流せそうにない「罪責感」(「我は免すべからぬ罪人なり」)をむきだしにする格好で閉じられる結末は説得力を持つ。その物語がどこまで「実話」であったかどうかに、確たる答えはない。ただ、『世界文学のなかの『舞姫』』(二〇〇九)のなかで、私は次のように書いた――「〔読者の〕皆さんには、一度は太田豊太郎になっていただき、その残った人生を生き直して、この読書を躍動的な読書につなげてもらえたらと思いました。(★㉖)」
鷗外の娘であった小堀杏奴が、『舞姫』のエリスだと確定はしないまでも、「独逸留学時代の恋人ではないかと思われる〔中略〕女の写真と手紙を全部一纏にして死ぬ前自分の眼前で母に焼却させた」という「母から聞いた話」(★㉗)を書いたことがあり、『舞姫』が「実話」であろうとなかろうと、子どもまで設けた恋人を見殺しにしてまで、重大な人生の選択をなした青年の「恨」こそが主題である『舞姫』を読む場合には、その男がその「事後」の時間を生きるなかで、どんなふうに「過去をひきずるか」へと想像力を広げることは、読書する人間に課された永遠の課題だと思ったのである。
じつは『ジェスチャー・ライフ』の主人公は、太田豊太郎と同じく二〇歳前後の若さで「悲恋」(=朝鮮人慰安婦との束の間の交情と、そのあっけない終わり)の記憶をひきずり、戦後の日本では、どうしても安穏として年齢を重ねることはできず、米国に移り住んでからも、「養女」を育てたきりで、性的関係を持つ女性があらわれても、決して結婚を口にすることはないまま、いつしか「老境」に入ろうとしている。
この「故郷を離れた退役軍人」(九三頁)のうらぶれた姿が、私には、まったく他人事ではないし、そんな小説を「三十代前半」の男性が書いたというのは、じつに驚嘆すべきことだと思う。それこそ森鷗外が『舞姫』を「セイゴンの港」で終わらせず、主人公の晩年にまで筆を進めていたら、こうなったかもしれないというような、腰にズドーンと響く読後感が圧倒的なのだ。
主人公(ベンジャミン・ハタと呼ばれている)は、中年を過ぎてから交際しはじめた女性に、その「養女」に対する対し方について批評される――「あなたは、彼女を、前に傷つけたか裏切ったかした人のように、望むことはなんでもしなくちゃならないとでもいうように、ほとんど罪の意識で接している。」(七一頁)
この手厳しい批評は、さらに「それは相手が誰であろうと絶対にいいことではないわ。とくに子どもにはね」とつづくのだが、それこそ「贖罪」のために「養女」をひきとることにしたとでも言わんばかりの主人公を、交際中の女性(メアリー・バーンズ)は、どこかで持て余している。「あなたは本当にはかり知れないひとね、〔中略〕あなたのような人には会ったことがないわ」 (三八一頁)と。
しかし、べつに留学先で「悲恋」を経験していようといまいと、また派遣された戦地で「女の志願者」とのあいだに悲恋を経験していようといまいと、「老いた男」は誰だって、所詮は「ベンジャミン・ハタ」のようなものだという気がするのである。
少なくとも、私はそう思う。
太田豊太郎の場合には、ベルリンの「クロステル街」、ベンジャミン・ハタの場合には「ビルマ戦線」、と違いはあっても、「トラウマ」や「オブセッション」と深く結びついている場所が誰にでもある。そこからどれだけ遠く離れてはいても、その「過去の名残」は決して体から消えず、心からも遠ざかることがない。
そして、かつてビルマ戦線で束の間の「恋」のまがい物を決定的に生きてしまったベンジャミンは、老いても、その彼女との過去を象徴する「黒い幅広い布」(二四五頁)を後生大事にしまいつづけている。しかも、その「布」を、戦災孤児として韓国からもらわれてきた「養女」が「クローゼットの漆塗りの箱のなか」から見つけ出すという、さりげないエピソードが語られている。戦地で見殺しにした「クテ」Kkutaehという名の朝鮮人女性の「遺品」のような「黒い布」を、「サニー」という「プサンからもらわれてきた少女」が、わけもわからず手にするのだ。
私が『ジェスチャー・ライフ』を読みながら、小堀杏奴の書いた鷗外晩年のエピソードを思い起こしたのは、この「黒い布」という「シンボル」に触れた瞬間だった。
かつて日本軍将校であったベンジャミン・ハタが、戦地にあって、思わず「彼女の国の言葉」(二五五頁)で親しく通じ合った朝鮮人女性の思い出が、戦後の日本にあっても、移住後の米国にあっても、彼にはつきまとったのだ。「黒い布」は、その「シンボル」だったわけだ。それがどういうシンボルだったか、詳しいところは種明かしになってしまうので、ここでは触れない。
人間誰しも、老齢を迎えると、数多くの「秘密」(数々の「遺物」)を抱えこんで生きるものである。韓国で名乗りを上げた元慰安婦ハルモニとの出会いを受けて小説を構想し始めたチャンネ・リーではあったが、この「日本人を名乗る老人」を造形したことで、はじめてこの類を見ない「慰安婦小説」を書き上げることができたのだ。
これは「ジャパニーズ」だとか「コリアン」だとかを抜きにした、言わば「男にしか書けない文学」のひとつなのである。
田村泰次郎や古山高麗雄が、もう少し長生きして、これを読むことがあったとしたら、何だか、してやられたような感覚を味わったのではないかと思う。
七、日本語という伏流水
ところで、コリアン・アメリカンの作家が、コリアンを登場させる小説を英語で書こうとするときに、「日本語」になんらかの役割をあてがわないことには、初志を貫徹できないという共通了解がコリアン・アメリカンの作家たちのなかにあったとして、そのもうひとつの例として、これまで取り上げてきた、いわゆる準一世の作家(出生地は韓国)とは違って、すでに「二世」に属するポール・ユーン(一九八〇年、NYC生まれ)の『スノウ・ハンターズ』を最後にみておこう。
というのも一九八〇年、米国生まれのポール・ユーンが、半島からブラジルに移住したコリアンを主人公にして描いたこと自体が異色なだけでなく、「韓国戦争が終わったころ」、ブラジルに渡った「反共捕虜」のひとりを主人公とし、日帝時代(主人公は一九二九年の生まれ)からブラジル(おそらくサントスと思われる港町)移住後まで、何らかの形で日本語との接触を断つことのなかった(捕虜収容所では英語との接触が濃厚だったが)ひとりとして設定されているという意味でも、注目に値するからだ。なにより、チャンネ・リーが三〇歳代で、米国在住のコリア系の元日本軍兵士を取り上げたように、ポール・ユーンもまた、作家からすれば、父親(場合によっては祖父)の世代にあたる朝鮮人の過去を「再創造」する試みとしての文学創造に挑戦している。
そして、これは多少乱暴な言い方になるかもしれないが、「かりに日本語を習得していたとしても、それは外国語として学ばないかぎり、身につくはずがない世代のコリアン」が「その運用能力がどうであれ、「国語としての日本語」を身につけずに生きることは困難であった世代のコリアン」を身近に感じ取るための文学とでも呼びたくなる「移民文学」の一形式を備えた作品なのである。
きわめて詩的叙情にあふれる作品なのでプロットだけを追うのは味気ない気がするが、やむをえない。
朝鮮戦争に「北の兵士」として徴収された空爆で隊が壊滅した後に、連合軍側の捕虜収容所に身柄を拘束される。日帝時代には貧困に苦しめられ、ほとんど学校にも通わなかった主人公(=ヨーハン)は、むしろ収容所のなかで「アメリカ人の若いナース」――p. 4)の話す英語の方がずっと身近な言語であったかもしれない。
そんな彼が「着替えのシャツと数本のズボンをつめこんだリュックと、〔ブラジルに着いてからの〕居住先と雇用願の手紙を一通」(同前)携えて、単身ブラジルに渡るのだ。道中、船員のなかには韓国人が混じっていた(彼らは軍属として「日本海軍」に所属し、いくつもの海戦を経験していた――p. 7)ので、意志疎通に不自由はしなかったが、いざ船を降りて、桟橋に足をふみだしたとたん、もはや韓国語を話す相手はいなかった。船のなかで簡単なポルトガル語を教わっていた程度だった(p. 8)。
そして彼が向かったのは、港町に住む「キヨシ」という名前の日本人で、仕立屋だった。
ブラジルに向かう前、彼は「帰国」repatriationの意思があるかどうかを一度だけ確認された(p. 11)が、「北」に身寄りのない彼は「ブラジル行き」を選んだのだった。そして、ブラジルではまず日本人の世話になるようにと指示されたのだった。
手紙に書かれた番地をさがしながら歩いていくと、「日本語で窓に貼り紙のされた店」(p. 9)があって、それが目的地だった。一九五四年のことだ。
店を覗きこむと、南国らしくシャツ一枚をまとっただけの東洋人が「「開いてるよ」と日本語で話しかけてきた」のだが、返事をしようとしても、日本語は「遠い記憶のなかを漂っているような言語」でしかなかった(p. 14)。
結果的に、ヨーハンは、キヨシから少しずつ仕立てに関わることや、ポルトガル語の基本用語を教わるのだが、会話は必要最小限で、それでも「ある種の親密感」(p. 31)が生まれていったのだった。
ブラジルの港町での生活に慣れていく日々のなかにも、ロシア(ソ連邦)の沿海州に近い雪の多い朝鮮北部で過ごした少年時代の思い出、捕虜収容所での思い出などが、ヨーハンの脳裏から離れない。
時おり、ブラジルに来るさいに知り合った船員が、声をかけてくれて、韓国語を話す機会がなくなったわけではなかった。そして、ヨーハンは、その韓国人の船員から「東京や大阪の工場から洋服生地を運んできている」ということや、船員の一人は「息子が二人、娘が一人いて、妻は日本人でホテルの洗濯係をしている」ということなどを知ることになる(p. 69)。日本を拠点して生きているコリアンが日本の敗戦後もなお存在することなど、ヨーハンにとってはこれが初耳だったのかもしれない。
八、棄郷者たち
しかし、そんなヨーハンではあったが、ポルトガル語で話すことにも慣れ、ブラジル女性と関係を持ったりする機会もめぐってくるようになるのだが、驚くべきことであるが、キヨシが急死してヨーハンが店のあとを継いだ後、日本語はそれまで以上に質感を持つようになってくるのだ。
ヨーハンは、町の教会に時々出入りしていたのだが、キヨシの死後に教会の用務員をしている「魚【るび:ペイシェ】」の名前で知られる男から、キヨシが写っている古い写真を見せられる。古い農園の前で「日本人の男女や子ども」が立っている集合写真で、その農園は、「持ち主が死んだあと、空き家になっていた」のが、「第二次世界大戦の時期には収容所の一部」としても用いられていたことがあるというのだ(p. 109)。
アジア太平洋地域で(朝鮮や台湾の住民をも狩り立てながら)第二次大戦を戦った日本人が、ブラジルでは「敵国民」として収容されていたということなど、これまたヨーハンにとっては初耳だったろう。
そして、さらに「魚【るび:ペイシェ】」は、キヨシの写った一枚の写真をたいせつにしていて、それをヨーハンに差し出して言うのだった――「彼は第二次大戦にも従軍して〔中略〕軍医だったんだよ。〔中略〕彼が来たころ、私はまだ子供でね。町のみんなは日本人のことを「脱走者」defectorsだって呼んでたな。」(p. 109)
第二次大戦期に、海岸地帯の枢軸国民(および枢軸国系市民)の強制収容がブラジルで行われたのは確かだが、そうした彼らが港町の近くに隔離されていたという話がどこまで真実に基づくかどうか、すこしあやしい(北米の読者は、それを少しもふしぎには思わないだろう)。
また戦前に移住した日本人移民が、当時、ブラジル社会に十分適応できていたかどうかは別にして、第二次大戦期間中に隔離されなければならなかった日本人が「脱走者」と呼ばれる場合がありえたのかどうか、そこも分からない。それこそ、日本人移民社会の内外で、なかには「兵役拒否者」が混じているという噂はあっただろう(★㉘)し、それとは別に「元兵士=在郷軍人」がブラジルで諜報活動を行っているというような噂がブラジル人のあいだには広まっていた可能性もある。
キヨシが亡くなった後にブラジル人から聞いた話だという前提があってこそ、こうしたキヨシの前歴の不確かさが、かえってリアリティを生み出している。ヨーハンとキヨシとは、それこそ「脱走者=棄郷者」としての経歴を絆として、キヨシの死後にいっそう深く結びつくようになるのだ。
いずれにせよ、『スノウ・ハンターズ』は、キヨシが亡くなった後半部分に入ってから、ますます「英語で書かれたブラジル・コリアン文学」という枠に収まらなくなっていく。
そして、そのことは初期段階の「脱北者」であったヨーハン(捕虜収容所では「北の人」northernerと呼ばれていた)が、そんな彼であったればこそ、「脱走者」と噂されていたキヨシのなかにみずからの分身を見てしまうこととも深く結びついている。
その波及効果として、ヨーハンは、ふとキヨシの声を思い出すようなときがあった。すると、そこから芋づる式に「彼が生まれ、〔徴兵されるまで〕二十年間暮らした郷里の秋」(p. 162)のことが思い出されたり、「父親が小作人をしていた家の大家が長崎で造船をしていた日本人だった」(p. 134)という記憶が蘇えったり、彼はいつしか「日本」なるものから自由でいられないことを思い知らされるのである。
また韓国人の船員から、日本で日本女性と家庭を持っているという友人が亡くなったと聞けば聞いたで、「その奥さんは今でもホテルで働いているのだろうか」(p. 164)と、そのことがとても気になる。
そして、かつてキヨシが使っていた部屋に時々足をふみ入れたい気持ちになったヨーハンは、机の上に積みあげられていた本を「パラパラめくってみたりすることもあった」のだった。
冒険ものだった。それらは日本語だったが、彼はもう単語を忘れ始めていたから、全部は読めなかった。(p. 163)
こんなヨーハンは、急死した船員の友人の妻に「一度だけ手紙を書いたことがあった」(p. 164)というから、彼は、日本語の読み書きがある程度はできたということなのだろう。それは日帝時代の公教育が思うほどはなしとげられなかったことを、ブラジルの日本人移民や、韓国系の船員は自力でなしとげたということでもあったのかもしれない。
そんなヨーハンにも恋人があらわれ、ずっと手を付けないままにしていたキヨシの部屋もきれいに片づけられてしまうが、ブラジルに来たころ、まだ子どもだった娘(=ビア)が、ヨーハンの前にあらわれたのだ。兄と二人で浮浪児のような暮らしをしていた彼女らをキヨシは、かわいがってやっていた。
ヨーハンとビアを結びつけたのはキヨシだった。
そしてビアと親しくなっていくなかで、ヨーハンはキヨシとともに過ごした時間を思い出す。
ブラジルに来た年のことだと思うが、ある晩、キヨシに体を揺さぶられて目が醒めた。眠りながら叫びをあげていたらしいが自分では気づかなかった。目をあけても視野がぼやけて、目は輝きを失っていた。寝巻は濡れていた。キヨシは両手で抱きかかえ、彼を持ち上げた。湯船に水を張り、店から足を載せる台を運んできて、ヨーハンの体にお湯をかけ、背中をこすってくれた。彼は湯船のなかで両ひざを抱え、キヨシからずっとされるがままでいようとした。(p. 180)
ポルトガル語と日本語でだけつながっていたキヨシとヨーハンが、ポルトガル語でしかつながれない教会の用務員の「魚【るび:ペイシェ】」やビアを介して、いっそうつながりを深め、キヨシという日本人の記憶が、ブラジルの港町のなかで、ほそぼそとだが、しかしゆるぎない温かみとともに根を下ろしていく。
九、語圏と文学
ポストコロニアル批評がなしとげたことのなかでも最も大きな功績は「英文学」や「日本文学」(「国文学」という名称の古めかしさは別として)といった概念そのものの賞味期限が切れたことを明らかにしたことにある。
そもそも英語で書かれてはいても米国で生まれた文学は「米文学」の名で呼ぶという慣例が第二次大戦後には定着しつつあったのだが、それこそ旧英領(インドやフィリピン他のアジア諸国、南アやナイジェリアなどのアフリカ諸国、カナダや中米・カリブ地域の諸国)から次々に登場する巨人たちを包摂できる範疇としては「英語圏【るび:アングロフォン】文学」という名称を用いるしかなかった。それこそアングロ・アイリッシュの文学も「英文学」という範疇には収まりきらないのだった。
そして、英語圏ほどの広域性を有さないまでも、カリブ海や南米北部、南太平洋やインド洋の島嶼部に領土を持ち、旧植民地でもフランス語が一定の影響力を行使しているフランス語文学には「フランス語圏【るび:フランコフォン】文学」、ブラジルに加えて、一九七四年のカーネーション革命後に独立を果たしたアフリカのアンゴラやモサンビークなどを含めた「ポルトガル語圏【るび:ルゾフォニア】文学」といった名称にも妥当性ばかりか、そうすることで文学史そのものが書き直される可能性が開かれてきたという歴史もある。
しかし、ここで用いられている「語圏」という言葉は、基本的に旧植民地地域に「宗主国の言語」が定着した広がりのことであり、その広がりは、「英国の版図」の大きさに、ほぼ対応する。つまり、「語圏」という言葉は、「帝国」の名称との親和性が高いことになる。
ただ、『外地巡礼』を書きながら思ったのは、「日本語圏」は、かならずしも帝国日本の版図にかぎられるわけではなく、南北アメリカの日本人移住地もまた「日本語圏」の「飛び地」だということだ。
それらの地域では、世代交代とともに日本語の使用範囲が局限されることになるし、かりに移民第二世代が文学創作に挑むとしても英語やポルトガル語やスペイン語にすがるしかなくなっていく。しかし、そこには日本語圏の一翼をになっていた日本人居住地の「共通語」(ブラジルでは、ポルトガル語まじりのそれを「コロニア語」の名で呼ぶ)の響きや香りが染みついている。それこそカレン・テイ・ヤマシタの『ブラジル丸』Bazil-Maru(一九九二)には、ポルトガル語圏であるブラジルの片隅で日本人コミュニティーを形成して、日本語圏ならではの言語生活や文化活動にも熱心なひとびとの姿が、英語を用いて、たくみに描かれている(★㉙)。
つまり「語圏」という言葉は、そもそも「その言語が話されている」(-phone)を意味するのであって、「英語圏【るび:アングロフォン】文学」や「フランス語圏【るび:フランコフォン】文学」は、大半が「元帝国の言語」で書かれるのだとはいえ、逆に、出身地の「母語(的なもの)」をたずさえた労働移民として世界に散らばったディアスポラの民は、その「母語(的なもの)」を「国語」として認定している国家があろうとなかろうと、該当する「語圏」の構成員なのである。「語圏」というタームは、書記形態を念頭に置くことなく使用できるのだ。たとえば「言語圏」language sphereというような意味で。
そう考えれば、南北アメリカのコリアン作家たちが英語やスペイン語やポルトガル語で書き、旧ソ連邦の「高麗人【るび:コリョサラム】」がロシア語で書き、なにより在日コリアンの作家が日本語で書く豊かな作品群は、韓国=朝鮮語で書かれていないからといって「韓国=朝鮮=高麗語圏【るび:コレアノフォン】文学」の名でくくれないわけではない。
書かれる言語と、作中の発話や思考を支えている言語が一致しないのが、現代文学の特徴のひとつなのである。
そして、ここで李箱からポール・ユーンまで、朝鮮半島に出所を持つ作家たちの作品群は、何語で書かれようと「韓国=朝鮮=高麗語圏【るび:コレアノフォン】文学」の範疇に収まるし、それどころか、それらはすべて、なにがしかの形で「日本語圏【るび:ジャパノフォン】」の広がりを背景にしたものばかりなのである。
「語圏」の膨張や収縮が、単に「帝国」の膨張と収縮だけでもはや説明がつかない、より大規模な人口移動を背景とする世の中が続いているいま、「たったひとつの言語」で書かれた文学作品は、特定の「語圏」ではなく、数々の「語圏」のあわいで生を紡いでいるひとびとの姿を描くという使命を負い始めている。
短篇集『かつては岸』に収められた短篇は、済州島から、現在、その名称問題で紛争がある日本海=東海周辺を舞台にした作品が大半で、登場人物も韓国人や日本人が登場するが、これを言い換えれば、まさに「朝鮮語圏と日本語圏が重合する地域」の物語が、英語(光復後の韓国に駐留し、韓国戦争で中核的な役割を果たした米国の言語)で書かれたものだと言える。
そして、『スノウ・ハンターズ』は、ポール・ユーンにとっては、さらにポルトガル語圏をまで視野に入れた新境地だったと言えるのだろう(★㉚)。
一〇、おわりに
こんなことを考えている矢先、二〇〇二年のブラジル滞在期に紹介された映像作家の岡村淳さんが、一九九〇年代に撮りためた映像のひとつを使って、二〇一七年に完成された『ブラジルのハラボジ』Haraboji no Brasil(二〇一七;改訂版二〇一九)という作品を日本で観る機会があった。そういえば、二〇〇二年に岡村さんを紹介されたのは、サンパウロ大学での集中講義のタイトルが「浦島太郎と日本」であったことを聞き知った知人が、岡村さんの『郷愁は夢のなかで』(一九九八)のなかに、戦後は、一度は帰国したものの、郷里の鹿児島で、自分は「浦島太郎」だと感じ、骨を埋めるのはブラジルしかないと心に決めて隠遁者のような生活を送られていた「西佐一(★㉛)」という方が、そこには登場するからというのが理由だった。
以来、岡村さんが日本に来られたさいにも何度かお目にかかり、『ブラジルのハラボジ』を観ることができたのも、そのときの友誼【るび:よしみ】に導かれてのことだ。
じつは、この映画、タイトルからも分かるように、朝鮮半島出身の男性がブラジルで老後を過ごしているという、そのありのままの姿を描いたドキュメンタリーだ。
それこそ『スノウ・ハンターズ』に描かれたヨーハン以前にも、半島出身者は日本船籍ほか、さまざまな貨物船の船員としてブラジルにも足をふみ入れていたといわれてはいたのだが、それとはべつの経緯を経て、ブラジルに根づくことになった方がいたということなのだった。
その主人公は、「セニョール三田」の名前で日系人のあいだでは知られ、ブラジルと韓国のあいだに国交が結ばれるようになって以降、チャンスンホ(張昇浩)の名で、韓国の側からも「先駆移民」に認定されたようだ。
一九〇七年生まれで、食うに困って大阪に出てはみたものの、貧しさから逃れることはできず、半島時代から「救世軍」に信頼を寄せていた彼は、大阪のメソジスト派教会の日本人から誘いを受けて、渡伯を決めたとのことだ。そして、一九二六年の渡伯後、一九三八年に三田家に婿養子に入り(居住地はサンパウロ近郊のジュキェーリ・ミリン)、一旦は朝鮮語を忘れてしまいそうになったともいう。それこそ、一九五〇年代後半にすれちがった「反共捕虜」のコリアンとは日本語で話したというくらいだ。しかし、韓国からの移民の増えた一九六〇年代以降は、そうした新移民との付き合いも増え、彼はまさに「韓国語圏」「日本語圏」「ポルトガル語圏」のはざまで日々を送り、孫たちにはおいしいリンゴを食べさせてやりたいと映像の終わりの方では語られている。
ブラジル南部のサンタ・カタリナ州のサン・ジョアキンでリンゴ農家を開いて大成功を収めた日系人の噂が、「セニョール三田」の耳にも届いたのだろう。
生まれたときから食べるのにも苦労をし、自分は食べないでも子どもには食べ物をあてがってくれた故郷の母親のことを口にしては涙ぐむ「セニョール三田」ならではの夢がそれだったのだ。
同映像は、一九九六年に撮影され、その四年後に「セニョール三田」は他界されたとのことだ。
はたして、この男性の生涯をだれかが小説に書くとしたら、だれが何語で書くことになるのだろうか。
◆本研究は、科研費補助金・基盤研究⒞「比較植民地文学研究の新展開―「語圏」概念の有効性の検証」(二〇一五―一七年度)の研究成果の一部である。
注
① 西成彦「ブラジル日本人文学と「カボクロ」問題」『文学史を読みかえる➇「この時代」の終わり』池田浩士責任編集(インパクト出版会、二〇〇七)、六九―八九頁。
② 西成彦(編訳)『世界イディッシュ短篇選』(岩波文庫、二〇一八)
③ ベルナルド・クシンスキー『K.消えた娘を追って』小高利根子訳(花伝社、二〇一五)
④ 西成彦「東欧系ユダヤ人についての断章/「日記2015より」『れにくさ⑥特集:ロシア・中東欧』東京大学文学部現代文芸論研究室、二〇一六、五六―六一頁。
⑤ Yi Sáng, Olho de corvo, organização, notas e tradução por Yung Jung Im, revisão poética por Haroldo de Campos, Editora Perspectiva, 1999. 同書の翻訳や注釈などに関わられたユンジュン・イム(パク)さんは、十歳でブラジルに渡り、サンパウロ大学でアロルド・ジ・カンポスの息子に出会ったのがきっかけとなって、韓国文学の翻訳を始めたのだという。ポルトガル語訳の『烏瞰図【るび:うかんず】』は、二〇〇一年に韓国で翻訳文学賞の対象になったとのこと。イムさんは、現在、サンパウロ大学東洋語学部で教鞭をとっておられる。ちなみに同学部ではアラビア語、アルメニア語、中国語、コリア語、ヘブライ語、日本語、ロシア語がそれぞれの学科を持っている。
⑥ 以下は、前掲書の袖に掲載された紹介文の全訳である。
李箱(一九一〇―三七)は、現代コリアン文学のなかで最もラジカルな実験者である。詩も書き小説も書く彼は、肉をそぎ落とした「ミニマリズム」を先取りする文体を駆使しながら、彼は東洋版のダダ構成主義者(クルト・シュヴィッタース流の)にとどまらず、とくに物語(というよりも散文テキストと呼ぶ方がふさわしい)を見ると、いくつかの面で、文章をたたみかける言語遊戯の点でガートルード・スタイン、言語を無にまでおいつめる点ではベケットに近い。北米での翻訳者、W・K・ルウが一九九五年に語ったところによれば、その「反抗精神」において、その作品を凌駕する作品はいまだ他のコリアン作家によっては書かれていないとのこと。
散文テキストにかぎった場合、希望のない待機を描いたベケットや、日常を不条理へと移したカフカの名前を挙げれば西洋の読者にはピンとくるだろう。しかし、李箱はこれにとどまらない、きわめて謎めいた特異性がある。極端な冷酷さ。しかもそれが幼児性を帯びている。善悪を超越した簡素な東洋的静謐さ。それが磨き上げられた表皮をなし、空の青みにも似た、あたかも剃刀の鋼のようだ。そして物語テキストにも詩にも死の衝動が貫かれている。より正確にいえば、衝動的な自殺願望だ。詩人の実人生ではそれが27歳の若さでの夭折という形をとることになった。そして苦痛(息づまるような)や愛(解決されない)やユーモア(ブラックでシニカル、自己アイロニー的で棘のある)を生み出す謎めいた中核をなすのは、女――天使化され、かつ/もしくは悪魔化された女――である。そして彼はこれらを絡みあわせ、解きほぐし、そしてふたたび丁寧に錯綜させる。言語の達人、そして文字言語の達人であった李箱は、音声面ではその言語に備わる遊びの可能性、そして書記言語の視覚性の面では漢字とハングルの混合から生じ、多義性をみごとなまでに掘りおこした。
ゲーテ的な世界的普遍性をめざし『シグノス(記号)叢書』の企画がこのきわめて異色の詩人=散文家をブラジルの読者に紹介するはこびとなったのは、ひとえにポルトガル語と韓国語に堪能な編訳者のユンジュン・イムさんの詩的感性、そして言語間を往復する翻訳実践をなしとげたその訳業のたまものである。李箱――別名、セニョール・カイーシャ’Caixa’は、その渾名からして、なにやらモノ的な雰囲気を感じさせるが、その背後からは、ひとりの反=作者がカラスのまなざしとともにこちらを窺っている。盲目の真空から放たれるかのようなまなざし。そしてこの反=作者は、ずたずたになり、かつひとをずたずたにもするエクリチュールと実存のミニマリズムを産み出す。言語からなる複雑怪奇な鏡のひとつひとつが、ひとつの命を犠牲にして通り過ぎていった。(西成彦訳)
⑦ 『李箱作品集成』崔真碩訳(作品社、二〇〇六)
⑧ 松井太郎『うつろ舟』西成彦・細川周平編(松籟社、二〇一〇)、『遠い声』西成彦・細川周平編(松籟社、二〇一二)
⑨ 西成彦『外地巡礼/「越境的」日本語文学論』(みすず書房、二〇一八)
⑩ 黒川創(編)『〈外地〉の日本語文学』全三巻(新宿書房、一九九六)
⑪ 川村湊『異郷の昭和文学――「満州」と近代日本』(岩波新書、一九九〇)
⑫ 増山朗『グワラニーの森の物語・増山朗作品集』川村湊編(インパクト出版会、二〇一三)
⑬ 川村湊『ハポネス移民村物語』(インパクト出版会、二〇一九)
⑭ 김환기(엮은이), 브라질(Brazil)코리안 문학선집, 도서출판 포고사, 2013. なお同書の【수필/평론/동화/콩트】の巻には、川村湊の「もうひとつの“ラテンアメリカ文学”」(『異文化』[論文編]十四号、法政大学国際文化学部国際文化情報学会、二〇一三、七―一三頁)の韓国語版が掲載されている(pp. 495-501)
⑮ 김환기(엮은이), 브라질(Argentine)코리안 문학선집, 도서출판 포고사, 2013.
16 김환기(엮은이), 브라질(Brazil)코리안 문학선집【시/소설】, p. 477.
17 Paul Yoon, Snow Hunters, Simon & Schuster, 2013. 以下の引用は、本文中に同書からのページ数を記入する。
18 ポール・ユーン『かつては岸』藤井光訳(白水社、二〇一四)
19 『憑依する過去――アジア系アメリカ文学におけるトラウマ・記憶・再生』小林富久子監修(金星堂、二〇一四)。同論集の「序文」のなかで、小林は、こんなふうに書いている――「元来は精神医学の用語にすぎなかったこのトラウマという概念を文学の読みに適用するのに大きく貢献したキャシー・カルース編による『トラウマへの探究』によると、トラウマとは、現実に起きた悲劇的な出来事の犠牲者に対して、出来事そのものからくる傷痕だけでなく、その記憶を言葉としてなかなか他人に伝えがたいことからくる「二重の傷」をもたらすことになり、さらに、その傷痕がたあたま民族全体に降りかかるようなものである場合には、当事者個人に留まらず、世代から世代へと民族間で集団的に引き継がれるものになるという。そう考えれば、多くが出身地での血なまぐさい戦争や紛争から逃れるべく故国を離れ、苦難の道筋の後、ようやく落ち着いた移住先の米国でも多かれ少なかれ差別や偏見からくる様々な圧迫的な出来事に悩まされるといった社会的・歴史的背景をもつアジア系アメリカ人の作家たちが、最近の若手に至るまで、自らの作品を通して延々と過去に自民族が巻き込まれたトラウマ的な出来事を題材とする作品を書き続けているのも当然と頷ける」(***頁)。
20 エレイン・キム『アジア系アメリカ文学』(植木照代・山本秀幸・申幸月訳、世界思想社、二〇〇二)
21 チャンネ・リー『最後の場所で』(高橋茅香子訳、新潮社)以下の引用はた高橋茅香子訳を用い、そのつどページ数を記入する。ただし、部分的に以下の英語版を参照して、原語を補った(Chang-rae Lee, A Gesture Life, Granta Books, 2001.)
22 テレサ・ハッキョン・チャ『ディクテ/韓国系アメリカ人女性アーティストによる自伝的エクリチュール』池内靖子訳(青土社、二〇〇三)
23 Nora Okja Keller, Comfort Woman, Penguin Books, p. 16. 以下の引用は、本文中に同書からのページ数を記入する。
24 西成彦「女たちのへどもど」、前掲『外地巡礼』二三三〜二四二頁。
25 スキ・キム『通訳』(國重純二訳、集英社、二〇〇七)
26 西成彦『世界文学のなかの『舞姫』』(みすず書房、二〇〇九)、一三六頁。
27 小堀杏奴『晩年の父』(岩波文庫、一九八一)、一七三頁。
28 日本からのブラジル移民に「徴兵忌避者」が混じっていたことは、石川達三が『蒼氓』(「第一部」一九三五)で大きく取り上げたこともあって広く知られるようになったが、これにさらに大城立裕の『ノロエステ鉄道』(一九八五)が取り上げた沖縄出身の笠戸丸移民の事例などもふまえて「老移民と皇太子」という論考を書いたことがある(『胸さわぎの鷗外』人文書院、二〇一三)。また前掲『外地巡礼』に収めた「外地の日本語文学/ブラジルの日本語文学拠点を視野に入れて」でも日本人移民のバックグラウンドの多様性を取り上げた。
29 カリフォルニア州オークランド生まれの日系三世、カレン・テイ・ヤマシタは、ブラジル(および日系社会)での経験をふまえた『熱帯雨林の彼方へ』Through the Arc of the Rain Forest(一九九〇:邦訳は風間賢二訳、新潮社、二〇一四)に取材した『ブラジル丸』Brazil-Maru(一九九二)などで頭角をあらわした。
30 ポール・ユーンの『山々』Mountains(二〇一七)に収録された「ウラジオストク駅」ではロシアの沿海州が舞台になっていて「ロシア語圏」「中国語圏」などが新たに存在感を示しつつあり、コリアン・ディアスポラの広がりをさえ飛び越えていく。
31 岡村淳『忘れられない日本人移民』(港の人、二〇一三)には「西佐市【るび:さいち】」を岡村氏に紹介した溝部富雄氏を扱った章に、「西」への言及がある。「貧しげな暮らしをしている変わり者の日本人」が「独自の「浦島太郎」の話を誰に聞かせるわけでもなく作り続けている」(七五頁)という噂が、岡村氏を「西」のもとへと向かわせたという話の流れのなかで。
I will write in English because it is easier to do so than writing in Japanese.
First of all, I would like to thank you sending me this essay. It touched my heart greatly since the subject that you deal with coincides with my life. You may already know that I lived in Brazil, Canada, and Japan though not beyond that. I (or my family) lived in Brazil from 1964 to 1969, for about four and half years before moving to Canada. After this point is like other Asian Americans and Canadians. The connection with the Japanese language comes from the older age group of the Koreans. In the case of my parents, they were old enough to attend universities in Japan in the prewar time. My father was born in 1917 and my mother in 1922. the Koreans of this age group spoke fluent Japanese. Some of them immigrated to North America and Brazil. Among the Koreans who migrated to Brazil in the 1960s, my parents were among the older group. My father attended the engineering school of the Tokyo Imperial University in the prewar period. My other attended Japan Women's University. This mens their Japanese were more educated.
An interesting fact that you have not touched upon is that the people like my parents used the Japanese language in order to survive in Brazil. This is due to the fact that there were many Japanese in Sao Paulo and we lived in the local Japanese society. My father became an engineer for the Japanese agricultural cooperative, which were the largest one in Brazil at the time, simply because he was a Tokyo Imperial University graduate, eventhough his Portuguese was not fluent. I also got a job as a minor (ie, age under 18) apprentice at an Japanese publishing company for photographic work. My mother found this job for me because she spoke Japanese. I worked in this company for about two and hald years full time from age 16. I went to nightschool while working in this company. The while collar workers and management staff in the company were Japanese and spoke Japanese, while the blue collar workers were of the second or third generation Japanese and Brazilian whites and mixed people, and this group spoke Portuguese. I was among the blue collar group, and spoke Portugese though not fluently in the beginning, but slowly improving. I did not speak Japanese, but I was attuned to the Japanese spoken among the white collar people.
Beyond this connection through work, we lived in the world of Japanese town. Near Liberdade, ther were three Japanese cinemas. We were frequent visitors to the Japanese cinemas. My parents understood japanese and we teenage childrens had to read Portugese subtitles which were somewhat difficult. Nonetheless, we all enjoyed the Japanese culture by living in the Japanese town. I suppose other Koreans who did not understood Japanese language may not have had the same kind of appreciation we had of the local Japanese culture.
Once we moved to Canada, we had much less contact with the Japanee language and culture though my parents subscribed to the Japanese Magazines such as Zasshi Sekai and bought Japanese books. So we were always exposed to Japanee books as we grew up whether in Korea, or in Brazil, or in Canada. Obviousy, my parents were more fluent in Japanese than in English even after living in Canada more than ten years. Japanee language to them was near native. However children did not learn Japanese, so my parents spoke in Japanese between them when there were thing that they did not want children to know.
Now, I would like to bring up a diffent issue for you to consider. I already suggested that I was exponsed to the japanese culture and people through cinema and work, not though the Japanese language. Focusing on language and writing misses non-language dimension of social life. Focusing on the literary material previleges the people who write. This method unintentionally ignore the life of the people who do not write much. For example, the engineers like my father do not write much, and when they are gone, there is not much record on their lives. This does not mean their lives were less full. But there is very little writing on their lives. We know very little about the people who do not leave much writing.
I, myslef was a physic major in the undergraduate level in Canada. I went on with physic for Masters and PhD level. For a personal and perhaps political reason, I gave up the PhD program after two years. Suddenly I wanted to study sociology and East Asia. To make a long story short, this big change was due to my mother visiting North Korea because it was found that her father who went to North Korea in 1948 from South and never returned, was found to be alive in North Korea. The events that resulted from her visit became quite political in our lives in Canada. Our family was faced with mura hachibu withing the Korea community in Toronto. Suspecting us being communist sympathisers, many people cut relationship with us. This was the 1970s when south Korea was under anti communist dictatorship. (The root of this issue was the division of Korea into two parts, but many Koreans see Japan's occupation of Korea as a root cause.)
At any rate, I wanted to leave Toronto and study sociology and East Asia in a big American
University. It turned out that i chose Japan as an area focus of my PhD research. This lead me to learning japanee language. Eventually, this lead me to a teaching job in Australia. teaching Japanese sociology. My father passed away in the mid 1980s. In the 2010s, as I face retirement, I began to think more and more, on the one hand, about my parents lives during the colonial periods and, on the other hand, about my maternal grandfather who chose to go to North Korea. It happens that my maternl grandfather was one of the key "mining kings" during the colonial period. But he was burried in North Korea's Patriot's Cemitery. About the grandfather there are a lot of writings for the colonial period though not much abot his life in North Korea. About my engineer father, there is hardly any material. When I read the Korean American novels in English that touch upon the colonial figures, I have an urrge to write something about my parents and gradparents. As I said, there is little information about my father, so it may have to be a fiction a composite figure. And I am not a novelist either. But if I write in English, it would belong to that category of Korean English writing with a Japan connection.
Regards,
Sejin Pak
No comments:
Post a Comment