Wednesday, November 17, 2021

外地巡礼 : 西 成彦

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外地巡礼 Tankobon Hardcover – January 19, 2018
by 西 成彦 (著)
4.2 out of 5 stars 2 ratings
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日本語文学の拡散、収縮、離散 脱植民地化の文学と言語戦争 元日本兵の帰郷 先住民文学の始まり 台湾文学のダイバーシティ 暴れるテラピアの筋肉に触れる 島尾敏雄のポーランド 女たちのへどもど 後藤明生の〈朝鮮〉 外地巡礼 ブラジル日本語文学のゆくえ 外地の日本語文学

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「冷戦の影響がいまでも深く刻みこまれている〈東アジア〉において〈歴史〉も〈文学史〉も何も
かもが流動的、そして進行形である。そして、それがまさに〈進行形〉であることを最もはっき
りと示しているのが各〈語圏文学〉のまさに周縁に位置している〈マージナルな文学〉なので
ある。旧来の〈日本文学〉がどこまでも〈定住民の文学〉でしかありえなかったなかに、今日の
〈日本語文学〉という広域的な人間の移動を背景にした〈移動民の文学〉を先取りするような
さまざまな様態がすでに刻みこまれていたということ(…)。リービ英雄や楊逸や温又柔らの
華々しい登場は、けっして〈現代〉にのみ特徴的なものではない」


舞台は旧植民地・占領地のみならず北海道・沖縄から南北アメリカの移住地まで。
「日本語使用者が非日本語との不断の接触・隣接関係を生きるなかから成立した文学」、
すなわち「〈外地の日本語文学〉という問題を過去に封じこめることなく、今日的な問題
としてあらためて引き受けること」。

ポーランドのイディッシュ文学、カリブ海のクレオール文学、英語で書くコンラッド、ドイツ語
で書くカフカ、アルゼンチンのゴンブローヴィチ、日本のハーン…。マイノリティの言語・文学、
あるいは異言語・異文化接触による文学的創造を一貫してたどりつづけてきた著者による
「日本語文学史」書き換えの試み。


312 pages
みすず書房

Product description

出版社からのコメント


内容(「BOOK」データベースより)
森鴎外、佐藤春夫から津島佑子、リービ英雄、温又柔へ。旧植民地・占領地のみならず北海道・沖縄、海外移住地を舞台に織りなされた「東アジア」移動文学論。
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Product Details

Publisher ‏ : ‎ みすず書房 (January 19, 2018)
Publication date ‏ : ‎ January 19, 2018
Language ‏ : ‎ Japanese
Tankobon Hardcover ‏ : ‎ 312 pages
ISBN-10 ‏ : ‎ 4622086328
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4622086321
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あまでうす

3.0 out of 5 stars 未来の世界文学への新しい視座と展望Reviewed in Japan on March 7, 2019

こないだ、1968年に、一艙の船で南米ブラジルなどの南米諸国に渡った、日本人家族の軌跡を、半世紀に亘って取材し続けた「乗船名簿AR29」という番組をみました。

元NHKディレクター相田洋氏の執念が、乗り移ったドキュメンタリーでしたが、誰ひとり身寄りもいない外地の只中で、アマゾンの原始林を掘り起こし、新しい人生を一鍬一鍬切り開いていった勇気と忍耐に、大きな感銘を受けました。

本書の著者も指摘するように、戦争や国策、個人的な野望や失意や傷心など、様々な理由で母国を離れ、新天地で新たな自由や希望や慰藉を求めた大勢の「内地人」がかつて存在したし、いまも存在し続けています。

本書では、そのブラジルのような「外地」を舞台に、見知らぬ外国人と外国語の洗礼を受けた「内地人」が、明治維新の昔から現在にいたるまで、西欧はもとより台湾、韓国、北朝鮮、満州などの旧植民地、沖縄、北海道なども含めた広大な領域において、どのような文学体験を経てきたのか、その歴史と内実をつぶさに辿っています。

著者によれば「植民地文学」は、1)「移住者」たちの文学(北海道なら有島武郎の「カインの末裔」、小林多喜二の「蟹工船」など)、2)布教や学術研究のために訪れたインテリの先住民族文化報告(金田一京助のアイヌ研究)、3)先住民族の内部から登場したバイリンガルな表現者たちの作品(知里幸恵の「アイヌ神謡集」4)外地性を正面から受けとめようとする内地人作家の実験(中條百合子「風に乗ってくるコロボックル」、武田泰淳「森と湖のまつり」、池澤夏樹の「静かな大地」)の4つの類型に分類できるそうですが、そのことを通じて複雑にして怪奇な人間存在の暗闇が白日の元に晒されるとともに、旧来の内地プロパーの狭隘な文学観に楔が打ち込まれ、未来の世界文学への新しい視座と展望が生まれてくるように予感されるのです。
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イッパツマン

TOP 1000 REVIEWER
5.0 out of 5 stars 周縁地に広がる豊穣なる日本語文学Reviewed in Japan on May 30, 2020

 台湾、ブラジル、朝鮮など、様々な旧「外地」の作家による日本語文学(および一部の現地語文学)の歴史と現在、今後の展望を扱った論集。グローバリゼーションなどという言葉が一般化する遥か前から、「国境を超える文学」が日本語によって書かれてきたこと、そしてそのような作家達の周縁での活動を、クレオール文学のような豊かな文化世界として描こうと試みた一冊。

 知らない作家だらけだったが、特に台湾文学に対する関心が、本書により更に高まった。各作家が抱えているものの重さを考えると、現代の「内地」の作家より、余程面白い作品が並んでるのではないかとさえ予感する。

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《書評》
『外地巡礼:「越境的」日本語文学論』
西成彦*著、みすず書房、2018 年
三 須 祐 介†
本書は、「外地」における「日本語文学」についての論考がまとめられたものであり、第 70 回読
売文学賞(2019 年)の「随筆・紀行」部門を受賞している。学術的な価値を充分に備えながら、良
質な文学紀行にもなっているのである 1
「外地」とは「国外の地。特に、日本の本土に対し、日本が植民地として支配していた朝鮮・台
湾・満州などの旧領地」(『明鏡国語辞典』第 2 版)である。著者じしん「死語のようなもの」(8 頁)
と言うように、「外地」は確かに既に歴史化された語彙の印象がある。しかし、著者は、そのような
「外地」における「日本語文学」の多層的な声を、「帝国日本」の残響として拾い上げ、そこに「日
本文学」という枠組みでは到達できないであろうオルタナティブな文学の可能性に、耳をそばだて
ているのである。というのは、本書には「語圏文学」の周縁への意識が貫かれており、そのような
意味においても、「文字を読む」というより「声を聴く」という著者の姿が髣髴とされるからである。
本書は 5 部構成となっており、内容は以下の通りである。Ⅰは「日本語文学の拡散、収縮、離散」、
Ⅱは「脱植民地化の文学と言語戦争」「元日本兵の帰郷」「先住民文学の始まり:『コシャマイン記』
の評価について」、Ⅲは「台湾文学のダイバーシティ:2016 年 7–10 月の日録より」、Ⅳは「暴れるテ
ラピアの筋肉に触れる」、「島尾敏雄のポーランド」、「女たちのへどもど」、「後藤明生の〈朝鮮〉」、Ⅴ
は「外地巡礼:外地日本語文学の諸問題」、「ブラジル日本語文学のゆくえ」、「外地の日本語文学:
ブラジルの日本語文学拠点を視野に入れて」。
Ⅰの「日本語文学の拡散、収縮、離散」は本書の総論と位置付けてよい講演記録であり、先住民
としてのアイヌ、帝国日本の大陸や南方への進出と現地住民との接触、北米・南米・満洲国といっ
た海外移住地、敗戦と引揚げ、沖縄、北米や南米の日系社会、在日といった射程の広い問題意識に
まず圧倒される。帝国日本のなりゆきと並行するように、「日本語文学」が外地を得ることで拡散し、
また外地を失うことで収縮、離散していくという見取り図が示される。「『東アジア文学史』の一部
をなす『日本語文学』なるものの輪郭を描く」(31 頁)という著者の構想は、この後に続く各論へと
繋がっていく。
* 立命館大学大学院先端総合学術研究科教授
† 立命館大学文学部教授
sanxu@fc.ritsumei.ac.jp
1 なお、管見の限り既に二篇の書評が出ていることも付記しておく(日比,2018;大東,2018)。
© 立命館大学アジア・日本研究所
『立命館アジア・日本研究学術年報』2020, PRINT ISSN 2435-421X ONLINE ISSN 2435-4228, Vol.1, pp.129-131.
立命館アジア・日本研究学術年報 第 1 号
- 130 -
Ⅱの「脱植民地化の文学と言語戦争」では、被植民者にとって知の獲得やあるいはそれに基づく
(帝国への)抵抗意識の醸成にも二律背反的に必要な「帝国」の言語が、脱植民地化の過程でどう扱
われるのか、という点について、とりわけ戦後の台湾は、朝鮮半島における「帝国」の言語の単純
な排除に終わらず、被植民者であった台湾の人々の言語が再度マイノリティの立場に追いやられる
という複雑な状況を丁寧に論じるとともに、ポストコロニアルな状況下における文学の言語の選択
の問題、たとえば台湾諸語へのベクトルは「本土化」の可能性を深め、「リンガ・フランカ」として
の北京官話へのベクトルは、世界の華人ネットワークと繋がる可能性を秘めていると論じる。「元日
本兵の帰郷」では、帝国日本における被植民者(非内地人)のディアスポラの問題に光を当てる。著
者は、南方出征を強いられた台湾や沖縄の青年の「戦後」が描かれた文学のなかに、マジョリティ
の日本人ではない青年の自己認識を拾い上げ、「帝国日本」の残響としての文学の可能性を見出して
いる。「先住民文学の始まり」は、植民地文学、特に先住民の文学の類型化について北海道(アイヌ)
と台湾とを対照しながら論じたうえで、内地人による先住民なりすましの文学である鶴田知也の『コ
シャマイン記』についてその擬装を糾弾するのではなく、先住民への暴力性を批判する点や、アイ
ヌ系の日本語文学の端緒としての貢献をむしろ評価している。
Ⅲの「台湾文学のダイバーシティ」には「日録」とあるが、じつは、Ⅲこそが、本書の核になっ
ているといえるだろう。ここには、著者のフェイスブック(「複数の胸騒ぎ:Uneasinesses in Plural」)
における連載記事から、「広義の『台湾文学』に関連するもの」(301 頁)が集められており、研究者
や作家、研究や作品との縁を起点に、著者の思考が縦横無尽に拡散していく、実験場のような趣を
湛えている。たとえば、原住民作家であるシャマン・ラポガンの海や魚群の描写から、「海洋文学」
という問いを発し、話は『白鯨』のメルヴィルや、カリブ海出身の詩人であるデレク・ウォルコッ
ト、そして石牟礼道子の『苦海浄土』へと移っていく。まるで海洋地図を記憶している鳥が上空か
ら海を見下ろし、興味に応じて目標を定め、軽快に魚に近づき捕獲していくかのようだ。俯瞰と凝
視をリズミカルに繰り返しながら、未発の研究可能性が徐々に立ち上がってくるような文章を読ん
でいると、新しい知の経験をしているような感覚になる。日録に具体的な日付がなく曜日だけなの
も、思考や思索はリニア(線的)に進むのではなく、循環したりらせん状になったりするものだ、と
いうことを気づかせてくれる。取り上げられる文学作品も、原住民から、セクシュアル・マイノリ
ティまで、台湾文学のなかでもマージナルなパートに重点が置かれているようだが、なにより、
温又柔やリービ英雄という、日本語文学と台湾文学の境界上の存在に注目している点は非常に興味
深い。比較文学の射程の広さがなせる業なのかもしれない。評者もここから、多くの知のヒントを
得ることができた。なお、本書のカバー写真は、台北の「二二八記念館」であるが、この場所の重
層性は、台湾文学のポリフォニックな声にもつながっているように思える。この建物が位置するの
は、かつて日本統治時代に「新公園」と呼ばれた憩いの場であり、建物自体は旧 NHK 台北支局で
ある。「帝国日本」が残響するこの場所は、戦後、二二八事件で重要な役割を果たしただけでなく、
白先勇の小説にも描写されるようなゲイの出会いの場ともなった。まさに「台湾文学のダイバーシ
ティ」を象徴するような場所なのである。
Ⅳの「暴れるテラピアの筋肉に触れる」は、帝国日本の拡張による新たな移動の可能性とその犠
牲の寓意としてのアフリカマイマイから語り起こし、目取真俊の文学作品における沖縄の戦中戦後
を論じている。「島尾敏雄のポーランド」は、戦争経験を契機とした〈ポーランド人性〉を結節点と
して、植民地主義の残滓のような男女の恋愛を、島尾の作品に見出している。決して「外地」とは
《書評》西成彦『外地巡礼:「越境的」日本語文学論』(三須祐介)
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言えないポーランドであるが、ポーランドを鏡のようにして島尾じしんの「帝国日本」の記憶が明
滅しているのである。「後藤明生の〈朝鮮〉」も、戦後における後藤の作品が、「帝国日本」の外地
(故郷)の記憶を追体験していることを論じている。前者は地理的な、後者は時間的な逸脱と変形を
しながら産み出される「外地の日本語文学」の可能性を論じているのである。さらに、テレサ・ハッ
キョン・チャの『ディクテ』における発話以前の女たちの声をアーカイブする試みを例に挙げた「女
たちのへどもど」も、「外地の日本語文学」の表現形式における逸脱性や可変性を、著者が戦略的に
語ろうとしているように読める。
Ⅴにおける三篇の論考は、上述した各論を経た上で「外地日本語文学」とはなにかを定義しつつ、
とくにブラジルにおける「コロニア文学」を例に、「外地日本語文学」の今後の可能性を視野に入れ
た内容となっている。そこには「日本文学」という枠組みのなかでは決して生まれようのないオル
タナティブな文学創作の現場があり、「日本語文学」の可能性がある。著者は、「外地日本語文学」を
「日本語使用者が非日本語との不断の接触・隣接関係を生きるなかから成立した文学」であると定義
する。また、日本語が作家にとって「母語もしくは母国語であろうと、上から押しつけられた『国
家語』にすぎなかろうと」かまわず、「外地経験を背景にもつ」(264 頁)人物が登場するだけでよい
とする。上述した各論をあらためて持ち出すまでもなく、著者の「語圏文学」への意識とその境界
や周縁への関心は本書の通奏低音となっているといえるだろう。
ところで「巡礼」というと聖地や霊場といった場をめぐって恩寵に預かろうとする宗教的行為を
想像してしまう。しかし、それは決して過去の遺構を経めぐっているだけではない。「外地日本語文
学」の先人の足跡(=過去)をなぞり、それと対話しながら、現在と未来を見つめること。比較文
学の森を軽快に闊歩するような語り口の背後には、この声にならない切実な叫びが内包されている
ような気がしてならないのである。
参照文献
日比嘉高(2018)「日本語文学の可能性のなかへ、外地を解き放つ」『週刊読書人』3231 号,2018 年 3 月 16 日.
大東和重(2018)「『越境』文学生んだ移動の航跡」『日本経済新聞』2018 年 3 月 17 日.


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