
アメリカのありふれた朝 (集英社文庫) Paperback Bunko – February 20, 1981
by ジュディス・ゲスト (Author), 大沢 薫 (Translator)
3.4 3.4 out of 5 stars (2)
長男の溺死、次男の自殺未遂、妻の家出…。たび重なる不幸な出来事によって崩壊の危機に直面した家庭を通して、現代社会における夫と妻、親と子の絆を浮き彫りにする勇気にみちた愛と試練の物語。
===
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いずれは一枚のタピスリとして織り上がることを願いつつ。
http://www.kinaritapisserie.seesaa.net/article/91403341.html
本「アメリカのありふれた朝」(映画「普通の人々」原作)

amazon → アメリカのありふれた朝 (1981年) (集英社文庫)
「どうしてあなたは暴力や戦争のことばかり書くの? ほかに訴えたいと思う事柄はないの、コンラッド? これはあなたらしくないわ」今の彼女は、何もかも自分の責任といった調子だ。彼女は埋合わせでもするつもりでいるようだが、こちらとしてはあんな思い出にかかわりたくはない。関心を示されるよりも知らん顔で放っておいてくれたほうがいい、彼が他人に期待することといえばそれくらいのもので、ほかにはっきり思うことなどないのだ。扱いは簡単。手トリ足トリハゴ容赦下サイ、彼女に向ってそう言いたい。この女はおれの誇りをずたずたに引き裂く。
『アメリカのありふれた朝』 ジュディス・ゲスト 集英社文庫 P30
父親の資格とはいったい何なのだろうか? 服装について子供に注意すること。無理強いしないようにすること。何か変ったことがないかどうか気をつけること。今では彼も勘所がわかっている。食欲不振、不眠、学業成績の低下───すべて今のところは何の徴候も現れていない。息子は、よく食べ、よく眠り、予習もやっている。自分は幸せだと言う。そうだ、もう一つ肝心な務め。くだらないことでも訊いてやること───オマエ幸セカイ? 訊いてやることが大切。それも冗談めかして、そう、ほんの冗談だというふうに。だがコンラッドもそれに調子を合わせてくる、要点はぼかして。こっちが本気でたずねても同じ答えが返ってくるだけじゃないか? 良き振舞は意志の疎通とはいささかの関わりもなきものなり、この点は心にとめておかなければ。父たることは運まかせというわけにはいかないのだ。そういうこと。近頃じゃ誰の役割も楽じゃない。子供の役割にしてもご同様。昔は子供の役割といえば己れの振舞に心を配り、年上の人を敬い、一日一日をおたのしみ袋をあける時のように心待ちにすることだった。中に何が入っているか、さあおたのしみってやつ。それ以上のものじゃなかった。何が変ったのだろう。おたのしみが減ってしまったのか? それとも多すぎるのか?
同 P14-P15
こうして彼女は行ってしまった。彼はしばらくそのまま座っている。両手で空っぽのコーラのグラスを前後にすべらせながら。今朝は、彼女を水泳競技会に招待しようと考えていた。来てくれるものと、頭から決めてかかっていたなんてまったくばかな話。『一千人の道化師』にくらべたら、どうせつまらない代物なんだ。オイシッカリシロヨ ジャレット。ヌカルナヨ アノ子ハイイ子ダ ソレニアノ子ノ言ウコトハモットモダ 危険ナンダ モシ誰カ頭ノオカシイ野郎ガマワリヲウロウロシテ 助ケテクレトイッタラ 生キ甲斐ヲ感ジサセテクレトオマエニ頼ミコンデキタラ ソウシタラオマエドンナ気ガスル?
同 P80-P81
食事が済むと苺のムース、申し分なしの逸品。それから子供たちが姿をあらわした。合図とともに居間に登場、おやすみの挨拶をする。すべて王命による御前芝居。観客は丁重に感じいるばかりだ。キャルは子供たちの生真面目な行儀のよさに感心する。四人ともすばらしい子供たち。鳶が鷹を生んだの譬え通り、もとの鋳型をしのぐ出来栄え。単なる複製品ではなく、みごとな傑作だ。黒い瞳をもった美しい十四歳の娘が弟と妹にあれこれ指図する。その後ろに長男が控え目に、しかも兄らしい威厳を見せて立っている。キャルはその年頃のコンラッドを思い出した。何ごとにも真剣で、礼儀正しくて。居合わせる客と子供たちは、互いにぎこちなく微笑みかわした。母親としてのサラの誇りが満たされると、子供たちはやっと放免になった。
同 P93
罪。それは罰を意味するものではない、とバーガーは言った。罪はただ罪なのだ。何年か前、彼とバックはドラッグストアの店員とやり合ったことがある。店員は二人が漫画本二冊の代金を払っていないと言い張った。そして父親を呼んで、二人が嘘つきの泥棒だと世間に言いふらしてやると脅した。バックはせせら笑いながら言い返した。ヤッテミロヨ、親父ハオレタチガ嘘ツキジャナイコトヲ知ッテルサ万引キナンカシナイッテワカッテクレル。オマエガドウ思オウトオレハゼンゼンカマワナイネ。しかしコンラッドはかまわないどころではなかった。絶望的な気持ちにおそわれていた。自分が潔白だとわかっていても、後ろめたい、恥かしい思いでいっぱいだった。なぜだろう?
それは他人の悪を認めるよりも、自分の悪の可能性を信ずるほうが常に楽だったからだ。しかしそれでは解答にならない。ドラッグストアの店員は悪人じゃなかった。ただ間違えただけだ。判断を間違えただけでは悪を犯したことにはならない───それに、この正反対に位置するものを簡単に見分け、区別することができるだろうか?───善と悪とを? 潔白と罪とを? 自分が潔白であることのあかしとして、他人に罪ありと思いこむことが必要なのだろうか? 何か答が、何か解決策があるはずだ、ただそれが見つからないだけなのだ。
同 P306
ジュディス・ゲストの「アメリカのありふれた朝」を読んだ。(8/28)
Kinari Tapisserie
キナリの見たこと考えたこと。いずれは一枚のタピスリとして織り上がることを願いつつ。
http://www.kinaritapisserie.seesaa.net/article/91403341.html
本「アメリカのありふれた朝」(映画「普通の人々」原作)

amazon → アメリカのありふれた朝 (1981年) (集英社文庫)
「どうしてあなたは暴力や戦争のことばかり書くの? ほかに訴えたいと思う事柄はないの、コンラッド? これはあなたらしくないわ」今の彼女は、何もかも自分の責任といった調子だ。彼女は埋合わせでもするつもりでいるようだが、こちらとしてはあんな思い出にかかわりたくはない。関心を示されるよりも知らん顔で放っておいてくれたほうがいい、彼が他人に期待することといえばそれくらいのもので、ほかにはっきり思うことなどないのだ。扱いは簡単。手トリ足トリハゴ容赦下サイ、彼女に向ってそう言いたい。この女はおれの誇りをずたずたに引き裂く。
『アメリカのありふれた朝』 ジュディス・ゲスト 集英社文庫 P30
父親の資格とはいったい何なのだろうか? 服装について子供に注意すること。無理強いしないようにすること。何か変ったことがないかどうか気をつけること。今では彼も勘所がわかっている。食欲不振、不眠、学業成績の低下───すべて今のところは何の徴候も現れていない。息子は、よく食べ、よく眠り、予習もやっている。自分は幸せだと言う。そうだ、もう一つ肝心な務め。くだらないことでも訊いてやること───オマエ幸セカイ? 訊いてやることが大切。それも冗談めかして、そう、ほんの冗談だというふうに。だがコンラッドもそれに調子を合わせてくる、要点はぼかして。こっちが本気でたずねても同じ答えが返ってくるだけじゃないか? 良き振舞は意志の疎通とはいささかの関わりもなきものなり、この点は心にとめておかなければ。父たることは運まかせというわけにはいかないのだ。そういうこと。近頃じゃ誰の役割も楽じゃない。子供の役割にしてもご同様。昔は子供の役割といえば己れの振舞に心を配り、年上の人を敬い、一日一日をおたのしみ袋をあける時のように心待ちにすることだった。中に何が入っているか、さあおたのしみってやつ。それ以上のものじゃなかった。何が変ったのだろう。おたのしみが減ってしまったのか? それとも多すぎるのか?
同 P14-P15
こうして彼女は行ってしまった。彼はしばらくそのまま座っている。両手で空っぽのコーラのグラスを前後にすべらせながら。今朝は、彼女を水泳競技会に招待しようと考えていた。来てくれるものと、頭から決めてかかっていたなんてまったくばかな話。『一千人の道化師』にくらべたら、どうせつまらない代物なんだ。オイシッカリシロヨ ジャレット。ヌカルナヨ アノ子ハイイ子ダ ソレニアノ子ノ言ウコトハモットモダ 危険ナンダ モシ誰カ頭ノオカシイ野郎ガマワリヲウロウロシテ 助ケテクレトイッタラ 生キ甲斐ヲ感ジサセテクレトオマエニ頼ミコンデキタラ ソウシタラオマエドンナ気ガスル?
同 P80-P81
食事が済むと苺のムース、申し分なしの逸品。それから子供たちが姿をあらわした。合図とともに居間に登場、おやすみの挨拶をする。すべて王命による御前芝居。観客は丁重に感じいるばかりだ。キャルは子供たちの生真面目な行儀のよさに感心する。四人ともすばらしい子供たち。鳶が鷹を生んだの譬え通り、もとの鋳型をしのぐ出来栄え。単なる複製品ではなく、みごとな傑作だ。黒い瞳をもった美しい十四歳の娘が弟と妹にあれこれ指図する。その後ろに長男が控え目に、しかも兄らしい威厳を見せて立っている。キャルはその年頃のコンラッドを思い出した。何ごとにも真剣で、礼儀正しくて。居合わせる客と子供たちは、互いにぎこちなく微笑みかわした。母親としてのサラの誇りが満たされると、子供たちはやっと放免になった。
同 P93
罪。それは罰を意味するものではない、とバーガーは言った。罪はただ罪なのだ。何年か前、彼とバックはドラッグストアの店員とやり合ったことがある。店員は二人が漫画本二冊の代金を払っていないと言い張った。そして父親を呼んで、二人が嘘つきの泥棒だと世間に言いふらしてやると脅した。バックはせせら笑いながら言い返した。ヤッテミロヨ、親父ハオレタチガ嘘ツキジャナイコトヲ知ッテルサ万引キナンカシナイッテワカッテクレル。オマエガドウ思オウトオレハゼンゼンカマワナイネ。しかしコンラッドはかまわないどころではなかった。絶望的な気持ちにおそわれていた。自分が潔白だとわかっていても、後ろめたい、恥かしい思いでいっぱいだった。なぜだろう?
それは他人の悪を認めるよりも、自分の悪の可能性を信ずるほうが常に楽だったからだ。しかしそれでは解答にならない。ドラッグストアの店員は悪人じゃなかった。ただ間違えただけだ。判断を間違えただけでは悪を犯したことにはならない───それに、この正反対に位置するものを簡単に見分け、区別することができるだろうか?───善と悪とを? 潔白と罪とを? 自分が潔白であることのあかしとして、他人に罪ありと思いこむことが必要なのだろうか? 何か答が、何か解決策があるはずだ、ただそれが見つからないだけなのだ。
同 P306
ジュディス・ゲストの「アメリカのありふれた朝」を読んだ。(8/28)
原題を直訳すると「普通の人々」。映画化されていて、当時高い評価を得、今なお風化していない。
ずっと、ずっと、読みたい本だった。それなのに、一度も探してみようと考えなかった。なんとなく映画の「普通の人々」を見て、ひどく衝撃を受けて、なぜいままで原作を読むことをなおざりにしていたのかと居ても立ってもいられなくなった。ネットで検索したけれど「普通の人々」の小説はなかった。ジュディス・ゲストの名前も含めて検索して、はじめてこの原題とは違う雰囲気のタイトルのこの本の存在を知り、注文し、届いてからすぐ読み始めた。夜通し読み続けた。夜が明けたことに気づかないほどで、読み終わり目を上げて朝が来ていたことに驚いたほど、その中に入り込んでいた。
読んだ時期に切実に感じていた違和感、居心地の悪さが、当たり前の日々の中に、非日常的な行動に出ることなく、丁寧に描かれていた。「できるかぎり普通に振舞おう、目立たないようにしよう、自分の苦しみなどささいで自己中心のものだ、周囲に何かを期待をするなんて我儘はいいません、迷惑はかけないようにしますから自分のことはほっておいていただけるとそれが一番うれしいです」そんな、主人公コンラッドの態度。そして、コンラッドの父親の、コンラッドへの眼差しの戸惑い、自分自身への問い、子供の母親で、今なお深い愛情を抱いている妻との関係。
先の見えない小説。白い靄の中を、やむなく、ただ前に進み続ける。
結末が決まっている小説は、ゴール地点にゴムひもをひっかけてスタート地点に立ち、はじまりと同時にひっぱられていくようだと、読んでいてそんなふうに感じる。地面の様子や障害のあるなしで進むスピードに起伏はありつつも、とにかく結末に向かっていく。破綻する心配がなく、最後にはちゃんと結末にたどり着くであろう安心感がある。
この本はそういう小説じゃない。一文一文、困難を経ながら積み上げられている。芯地に少しずつ粘土を乗せていくのに立ち会っているような感じだ。どのような形にするのか、なっていくのか、著者自身模索しながら、しかし根気強く焦ることなく書き継いでいるのだろうと、読みながら、まさにその書く過程に立ち会っているような気がしていた。ほんの少し先に、今まさにその続きを思案する著者の姿があるような。
未消化。ただがむしゃらにむさぼり読んだことだけは覚えている。もしかすると、しばらくのちに読んだなら、その揺れが理解できなくなっている可能性もある。読んだとき、その状況だからこそ見出せたものも数多くあったのだと思う。
*
映画を見て感銘を受けた方は、原作本のこちらもぜひ。疑問の多くが氷解します。映画用にわかりやすく変更されている点なども、奥深くまで書かれているので、じっくり接する・考えることができます。
小説を先に読んだ場合、あまりにも先が見えず息苦しく、読み続けるのが苦しくなるかもしれません。その場合は映画をどうぞ。主人公のコンラッド(コン、コニー、ジャレット)、父親のキャル(カルヴィン)の姿は、映画でその振る舞いや息吹を先に見ていたからこそ、深く入り込めた、そんな気がします。
映画を見たときの感想等 → 映画「普通の人々」
タグ:"子ども"と向き合う
posted by きなり at 00:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読んだ本
ジュディス・ゲストの原作小説「アメリカのありふれた朝」は未読(近いうちに読みます)。ずいぶん前から、映画も小説もそのうちにと思っていて、このたびは機会があって映画を先に。
ダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」の最初のほうに、主人公がダイビングの格好をしてプールに浮かぶシーンがあった(と思う)けれど、あの所在のなさと重なった。(「卒業」のラストシーンはよくパロディで使われる。二十歳前にその先入観で観て呆気に取られた。何が観客の支持を集めたのかわからなかった。今なら名作と言われた所以がわかるのだろうか?)
で、その卒業の主人公に似た雰囲気を漂わせる青年が主人公。大人になる手前の青年の、足元の不安定さ。周囲の人々と自分との間にある半透明の壁。周囲の人間は悪人ではない。ましてや自分も。しかし自分だけ周りの世界と切り離されているような絶望・孤独感に包まれている。
ここから先、内容に触れることも書きます。「青年独特の孤独と絶望」になんらか反応するものがある方は見て損はありませんので、ここから先を読まずに映画をどうぞ。ただ、周囲と断絶した自分、という感覚がわからない人には面白みがないかと思います。
***
誰からも理解されない自分、あからさまに拒絶されているわけじゃないけれど、周囲の人間すべてに裏表があり、裏では自分を見くだしていると感じている。だからといって悪態をつくわけでもなく、相手にとって害のない当たり障りのない人間として振舞いつつ、孤独感に苛まれている。
それでも、ほんの、とてもささいなきっかけにより、自分と周囲を隔てている厚く透明なカンテンの壁をすっと通り抜ける。自分を覆っていた半透明な膜がはがれ、光の多い明るい世界、義理や同情や責任感からではなく、純粋な好奇心から自分を見てくれる存在と出会い、希望を見出す。たまたま出現したその他人によって、身動きの取れない牢獄にいたのはただの思い過ごしだったとハイになる。しかし、その他人は、あくまで「ただたまたまの存在」で、自分と世界を隔てる膜のことを知っているわけでも、ましてやその絶望や孤独に共感しているわけでもなく、自分の周囲にいる「自分とは異なる普通の人達」と変わらない人間の一人として自分に興味を持ってくれただけだから、当然、抱えている闇を垣間見せたりすると、眼が宙を泳ぐ。近づいたからこそ自分と相手の間にある断絶の深さを思い知らされることになる。
自分を心配し、いたわりの言葉をかけてはくれるけれど、自分を深い部分を理解しない人々、以前は一緒にスポーツに情熱を傾けた同い年の友人達。部活に試験に遊びに一生懸命なその友人達と主人公の違い、主人公がカンテンの内側に入り込むそのきっかけは、誰にでも起きる類のことではない。だから、そのアクシデントが起きねば、周囲との違和感やズレに気づきながらもそんな点には眼をつぶって普通にやっていけたはず。眼をつぶって、限界点を越えずに一生過ごす人もいるだろうし、典型的な青年のように見える友人達のうちにも、主人公と同じように「臨界点」を越えながらもなんとかやっている人もいるのかもしれない。
普通の人々、と銘打たれている点から登場人物を見る。
主人公は、青年特有のその孤独感を、追い詰められた状況により見つめなければならなくなった、ごく普通の青年。周囲の人間と自分は何か違うと、誰もがそう感じる年頃というのは、あるように思う。ただ、それが表出したこの青年は「普通だったけれど普通でなくなった人」なのか、「こういう状況まで含めて普通の人」なのか、どうなのだろう。
家族を気遣い、どうすればみんなが幸せになれるだろうかと考え、調和点を探り、自分を抑えた優しい人当たりの父親。主人公と同じ苦悩を根に持ちつつ、悲しみを隠して常に軽い微笑みを絶やさない物静かな雰囲気は、若さからエネルギーを制御できず暴走する主人公と(表面だけ見れば)対照的。
明るく社交的で信念を貫き、主人公・父親とは違い弱さを見せない母親。しかし一番異常な精神状態にあり、常識に囚われ、その自分の歪んだ信念により自分を含めた周囲の人間すべてを不幸せにしていることに本人が無自覚な様子は悲壮だ。(しかし、あんなに異常な行動を取らせなくとも伝わるのではないか。異常すぎてこの人だけ浮いて見える。)表面だけを見、この人を非難するのでは視点がブレる。分離した自己愛がバランスを崩し、他人の痛みを無視し、自分の痛みも麻痺させるに至る過程が映されていない部分にある。その裏側にあるものが、こんな形で出てきた理由、それは、母親という立場にならなければわからないのかもしれない。
精神科医のあの人、患者である人達はあんななげやりな態度の人に心を開くのだろうか。ただ「聴く用意のある他人」であれば誰でもよいのではないか。
ここに出てくる人達は普通なのか普通でないのか。
もう少し時間を置いて再度観よう。
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今ここにある自分
2016年01月02日
今ここにある自分
さっき、校長が、三本のポプラの木のことを知らない、といったが、本当はそうではなくて、もともとそんな木など、なかったのかもしれない。もし、切株さえなくて、なんのあとかたもなくて、その木のことをおぼえているのが、わたし一人だけだとしたら、わたしはその木が在ったなどと信じることはできないだろう。本当に木があったとしても。
過ぎ去ったことは、不確かであいまいなものになっていく。しかし、では今ここにある自分は何だろう? わたしは、わたしが費やしてきた日々であり、わたしが出会った人々と出来事の総和だ。だとすれば、わたしを見たらいい。何からできているか、わたしをばらばらにしてしまったらそれでいい。
「はるかな町」 三木卓 集英社文庫
わたしが何であるか、今の自分にとり重要ではないけれど、発言を続ける間は、発言主である自分が何であるかをわかるようにしておきたい。
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本当に伝えたいことが相手に伝わっていますか?─── 『アサーション・トレーニング』(3)
感情は出来事が引き起こすのではない─── 『アサーション・トレーニング』(2)
三つの対人関係の持ち方 ─── 『アサーション・トレーニング』(1)
鍵は自分の態度 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(5)
行動を変えても無駄 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(4)
元はと言えばアイツが悪い ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(3)
相手が問題を起こす必要性─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(2)
すべての行動は正しい前提の上に ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(1)
2011年07月11日
本当に伝えたいことが相手に伝わっていますか?─── 『アサーション・トレーニング』(3)
引き続き、平木典子さんの「アサーション・トレーニング」から引用します。
■自分の判断を決めることと、その責任(扱い方)について、自分の決定を表現すること・しないことについて。
アサーション権Ⅱ
私たちは誰もが、他人の期待に応えるかどうかなど、自分の行動を決め、それを表現し、その結果に責任をもつ権利がある。
この人権は、要約すると、あなたは自分自身についての最終的判断権をもっているということです。あなたは、自分がどんなふうに感じ、どう考え、どんな行動をとるかについて、決めたり、判断したりしてよいのであり、その結果について、責任をとることができるのです。分かりやすくするために、少し極端な言い方をすれば、他人がどう思おうと、あなたの感じ方や考え方はあなたのものであり、他人と同じ感じ方や考え方をしなければならないということはありません。また、それを主張する権利も、変える権利もあなたにあるということです。
したがって、逆に、他者も自分の行動を決める権利をもっていますので、あなたは他人を変えることはできないということです。ある有名なアメリカの心理療法家で、「交流分析」という考え方と方法を開発したE・バーンという人は、「過去と他人は変えられない」と言ったそうですが、この事実は、あなたにも相手にも当てはまります。
たとえば、今日は仕事が終わったら真っ直ぐ家に帰って、家族と団欒の一時を過ごそうと思っていたとします。ところが同僚に、一杯飲んで帰ろうと声をかけられました。「今日は、帰りたい」と言ったのですが、さらに「ちょっとぐらい、いいじゃないか」と誘われました。そんなとき、あなたはどうしますか。また、行動を決定した後、そのことについて後悔したり、後味の悪い思いをしませんか。
よくあることは、しつこく誘われて、相手に押し切られた形になって仕方なく一緒に行ってしまうのですが、行きたくなかったのに、家族に何と言いわけをしよう、などといつまでもくよくよしてしまうことです。もうひとつよくあることは、家族に約束したので仕方がないと同僚に言いわけをして誘いを断り、その結果、断って気を悪くしたかなとか、家族と変な約束をしなければよかったなどと、人を気にたり、家族を恨んだりするやり方です。
いずれにしても、このような後悔は自分の決断に責任を取っていないことになります。相手がしつこく誘おうと、そうでなかろうと、一緒に行こうと決心したのであれば、それはあなたが決めたことであり、「行く」と決めた瞬間に、その行動の責任はあなたが取ればよいことになるのです。つまり「行く」と決めたのはあなたなのですから、行きたくなかったのにと相手に責任を被せることはできないのです。さらに、「行く」ことにしたのであれば、そう決めたあなたの気持ちを家族に理解してもらうのもあなたの責任であり、家族に恨まれることを含めて覚悟するのもあなたの責任です。
同僚に断ったときも同じことです。もし、家族との約束を守ろうと決心し、誘いを断ったのならば、それはあなたの決めたことで、家族の責任ではありません。その結果、同僚に悪く思われることを覚悟するのもあなたの責任においてすればいいのです。
(中略)
相手ができないから、あなたにやってもらいたいと思っているからという理由だけで、あなたがそれをしなければならないということはありません。あなたがしようと思えばやればいいし、自分で決めたのですから、できる限りでそのことに責任を取ればいいのです。自分で決めたことですから、責任は取らなければならないのではなく、取れるのです。
自分で決めて、行動しておきながら、それが相手の希望をかなえることであったりする場合、相手のせいでそうなったと考えるとするならば、それは自分の決定権、判断権を放棄しているのであり、自分の決めたことを他者の責任にしようとする操作的で、甘えた生き方です。自分で決め、そのことに責任をとる権利は、他者から押しつけられた義務としてではなく、自分のものとして行使したいものです。
『アサーション・トレーニング ─── さわやかな「自己表現」のために』 平木典子 日本・精神技術研究所
■自分が欲求を控えめに表現することと、他人にその態度を要求すること。
子どもの中には、たとえば、欲しいおもちゃをねだらない子、小遣いが余計にいるときでも決して言わない子、行きたいところ、買いたいものなど自分の意見や欲求、気持ちを述べない子がします。そんな子どもは、おそらく親に自分の欲求を言ってはならないとか、親の権威には逆らえないとか、自分の希望は親によって決められる、といった体験があるのです。このような子どもは、自己表現を躊躇したり、控え目にしたりするために、分かってもらえず、一方で、「いい子」とされて、だんだん欲求や希望をもつことをあきらめる習慣がついていきます。欲求を意識すると自分の中に欲求不満がたまるので、そんな希望はもたないようにし、長じて(3)の考え方(自分の欲求や希望を言うときは、控え目にするべき)を自己の行動基準にしてしまうのです。
そして、その考え方は、往々にして、自分が権威者になったとき、自分が親になったときに、目下の者、子どもに向かって適応されるのです。つまり、目下の者や子どもには控え目に欲求を出すべきだと押さえ込みたくなるのです。権威に弱い人に限って、権威的な言動をするのをよく見かけますが、それはこのようなメカニズムによって起こっているのです。
(同上)
■混乱するほうがおかしい?わかりにくい意思表明。
感情表現の第二のポイントは、言っていることとやっていることを不一致にしないということです。ニコニコ笑顔をして「腹が立った」と言われても、嬉しいのか腹が立っているのか相手には分かりません。相手は、どう受け取ったらいいか分からないため、どう応えたらいいか戸惑うでしょう。このようなとき、アサーティブな人であれば「どちらを伝えたいのですか?」と訊くでしょうが、往々にして多くの人は、必死にどちらかを察して応えようとしてしまうものです。まして、弱い立場にいる人(たとえば子どもとか部下など)が、このメッセージをもらい続けると、常に判断に窮する状況におかれるため、脅威を感じたり、懲らしめられている気持ちになる可能性も出てきます。
このような、言っていること(言語表現)とそれにともなう非言語表現とが不一致な表現を「二重拘束的な表現」といいます。相手を二つの矛盾したメッセージによる拘束状態におき、相手を身動きできないようにしてしまうという意味です。
皮肉、棘のある優しい言葉、ふくれ面をしながら「いいですよ」と言うなどは、二重拘束のメッセージの例です。往々にして非主張的な人の表現は、二重拘束的になりがちです。
また、攻撃的な人の発するメッセージの中には、表現全体として矛盾している場合があります。とえば、「自由にしなさい」とか、「人には頼らないで、自分でやりなさい」というメッセージです。言っていることの内容は「自由を許し」、「自立を促し」ているようです。しかし、その言い方は命令的です。つまり「自由」や「自立」を命令していることになるので、その人の元では、たとえ、自由にしたり、頼らなかったりしても、その人の命令に従っていることになってしまうという矛盾が生じるのです。このようなメッセージに対しては、命令した人の枠を越えて自由になったり、自立したりはできないことになってしまいます。
(同上)
伝えたいことと、伝わることには、ズレが生じます。
自分が伝えたいことを、相手に適切に受け取ってもらうため、自分の側にある伝えたいことを伝える方法や、伝えたいことを阻む要因・歪んで伝わってしまう要素を取り除くことを、ずっと模索してきました。今の結論は、伝える技術がどうこうより、素直に自分の考えを話すことが、もっとも適切ではないかと思っています。
伝えあう、対話を成立させるには、「相手の意見をお互いが聞き、確認し、受け取りながら意見を交わすこと」が必須なので、相手の真意をいちいち確認しなければ、いくら誠実に振舞った"つもり"でいても、まったくの独善になってしまうのだけれど。
意思が伝わったとしても、それをどう扱うは相手の問題なので、そこは操作できません。はい、わかってます。だいじょうぶです。自分に出来ることは「真摯に自分の意思を伝えること」、ただそれだけです。
*
アサーション・トレーニングの本の紹介はこの記事で終わりです。
ここまでの記事は、私自身がここで引用したこれらのことを承知の上で書いてきました。次に書く記事も、これらをわかった上で書きます。急きょ本の紹介記事を挟みましたが、こちらの意思開示の一部として読んでもらえたらうれしいです。
******
パイナップルの砂糖漬けにつき語るリーザのことが、何度も何度も頭をかすめる。「自分が、自分が望んで望んで手に入れた幸せを満喫する間、罪もない人、まったく罪のない子供が、まったくいわれのない罪により罰せられる、その瞬間にも、その状況を目にしていてさえも、自分の幸せを優先してしまうエゴイストであることを、自嘲的に語る。純真無垢に幸せを享受するのではない、自分が得ている幸せを放り出して苦難の人を救うのでもなく、自分の幸せを優先させるであろう自分、わかった上でそうしてしまう可能性と、その恐れをさらけ出して見せること、そんな屈折した姿を、自分の尊敬する人の前に出して見せること。なぜならそれは、その人自身の姿と、自分とが、重なって見えるから。その屈折の加減がわからない人にそんなことを言ったりしない。
昨年の7月10日に、上のメモを書きつけていました。さて、前回に引き続き今回も、伝わっているのかいないのか、厄介事として嫌悪されているのか、特に気にかけることでもないと読み流されているのか、なんらか考える材料として扱ってもらえているのか、、、、いったいどんな思いでもって聞いてもらっているのか、ほんとうにさっぱり判断できない状況に陥っている私の「一方的な自己表現」ですが、あと少しだけお付き合いをお願いします。
amazon → アサーショントレーニング―さわやかな「自己表現」のために
2009年発行の改訂版もあります。
amazon → 改訂版 アサーション・トレーニング ―さわやかな〈自己表現〉のために
タグ:フォワイエ・プロジェクト
posted by きなり at 06:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読んで欲しい本
2011年07月10日
感情は出来事が引き起こすのではない─── 『アサーション・トレーニング』(2)
引き続き、平木典子さんの「アサーション・トレーニング」から引用します。
アサーションに必要な考え方につき、アルバート・エリスの論理療法の説明を通して、いかなる感情も自分自身が作り出していることへの理解を求めます。
人の言動のもとになるものの見方、考え方の問題点を指摘し、自己成長と人間関係のあり方に大きな影響を与え、貢献した人は、「論理療法」の創唱者A・エリスてす。エリスは、「感情は考え方に対する反応であり、考えは状況に対する反応だ」と述べています。エリスによると、感情は、何らかの状況や出来事に対して抱いたり、状況から引き起こされる反応であるかのように思われているけれども、そうではないと言うのです。つまり、感情は、実はものごとそのものへの直接の感情ということはなく、ものごとを人がどう受け止めたかによって引き起こされるというわけです。いい換えれば、私たちはものごとの受け止め方、ものの見方についてある特定のルールを持っており、そのルールによってものごとを受け止めた結果、ある感情が生まれるというわけです。
エリスの理論は「A-B-C-D理論」とも呼ばれ、英語の語呂合わせを楽しみながら次のように説明されています。
A (Activating event)=ものごとを引き起こすような出来事
B (Belief)=信念、思い込み
C (Consequence)=結果、問題、悩み、症状など
D (Dispute)=論破、論駁
「A-B-C-D理論」でエリスの考え方を説明すると、私たちは、問題や悩み(C)が、それを引き起こすような出来事(A)によって引き起こされると考えがちだが、実はAをどんな考え方で受け止めたか(B)の影響で、Cは引き起こされているということになります。つまり、問題や悩みの起こるプロセスは、A→Cではなく、A→B→Cなのです。
例をあげましょう。誰かがあなたを嫌いだと言った(A)ので、あなたが落ち込んだ(C)としましょう。一般的には、嫌われたので落ち込んだ(A→C)と考えますが、エリスは、嫌われた、ということは落ち込むような出来事である、だから落ち込む(A→B→C)というプロセスになっているというわけです。
ただし、Bには、合理的な思い込みと非合理的な思い込みがあります。そして、特に非合理的な思い込みは、現実的ではなく、その結果、問題や悩みがつくられやすくなります。
右の例で、嫌われた(A)、ということは残念だが、それも仕方がない(B)、となれば、それほど落ち込まない(C)でしょう。考え方がアサーティブであれば、ものごとは現実的、生産的に受け止められ、その結果、言動がアサーティブになっていくのです。
もし、非現実的、非合理的な思い込みを挿入してものごとを受け止めていると、結果(C)は非現実的、非合理的なものになります。エリスは、そんなことにならないように、非合理的思い込みを合理的なものに変えることを勧めます。しかし、その思い込みは誰かとのかかわりの中で体験されたり、言われたり、学んだりしたこと、自分の体験の中から作り出されたことなど、長年の生活の積み重ねによってつくられ、繰り返され、社会によっても強化されているので、簡単に変えることは困難です。そこでそれを変える助けをするには、その考えがいかに非現実的、非生産的であるかを説いて、論破・論駁(D)する必要があると言っています。理性を駆使して、そのような考えを止める努力をするわけです。
『アサーション・トレーニング ─── さわやかな「自己表現」のために』 平木典子 日本・精神技術研究所
感情は、出来事(対外的なもの)によって生じるのではなく、出来事をきっかけに、自分の考え方(信念による出来事の解釈)のフィルターを通過したことにより生じている、だから、考え方を変えれば起きる感情を変えることも出来る、という考え方です。
この理論を土台に、感情を適切に取り扱い、アサーティブに表現することを勧めます。
感情を表現しようとするとき、心得ておくと助けになる事実は、「感情はまぎれもなく自分のもの」であり、自分の責任で表現できるものだということです。それは次のような例をとってみればわかるでしょう。
たとえば、誰かが大きな音を立ててギターを弾いていたとしましょう。それを聞いて、「うるさい!」と不愉快になる人もいれば、「すごい!」と聴き入る人もいるのです。つまり、あることに対する感情は、自分が起こしているのであって、ギターを弾いている人が起こしているのではありません。確かに、ギターの音は自分のある感情を引き起こすきっかけにはなったのですが、それに対してどのような感情をもつかは自分が決めているのです。
(同上)
怒りを感じた時、適切に取り扱うことは特に大切です。
先に述べたように、怒りは、外界の出来事や周囲の人の言動がきっかけになって起こります。そのため、周囲のせいで怒らせられたと思いがちですが、実は、自分が自分を怒らせているのです。怒りの感情は不快ですから、それを自分が起こしているはずはないと考えたくなるのかもしれませんし、怒りのきっかけをつくったものや人に責任を転嫁したくなって、「あなたの話を聞いているとイライラさせられる」とか「私を怒らせないで!」とか「そんなことをするから、怒るんでしょ」と言うのかもしれません。
しかし、これまで何度か説明しているように、怒りは人間のもつ自然な感情で、誰もがもち得る当たり前の感情です。もし、不快だからもちたくないと思っても、もたないですますことはできないでしょう。
(中略)
まず、大切なことは、自分が怒りを感じていることに気づき、認めることです。そして、それはほかならぬ自分が起こしていること、したがって非難すべき人は誰もいないことを確認するのです。先にもいく度か述べたように、怒りは他者の言動がきっかけで起こっているかもしれませんが、自分がそれを気に入らなかったり、不満に感じるときに起こる気持ちです。したがって、怒りを感じたら、自分が怒りの所有者であることを認め、だから自分でどうにかできると考えましょう。
(同上)
「出来事にどう反応するかを決めているのは自分」であることを意識していないと、自分の気分(怒りや憂鬱)の責任を相手に転嫁し、"自分は被害者"的な言動をしてしまうことに繋がります。
また、「出来事に対する反応は、自分の考え方が土台にあり、その解釈によって自分の感情が生じ、その結果どう反応するかを自分で判断して決定し、自分の意思で行動している」、この一連の作業を自分自身が主体的に行っていることを自覚していないと、接した相手から「自分の行動に責任を持たない(責任を取る気のない)無責任な人間」と"見られて"しまうことも、あるのではないでしょうか。
*
論理療法について。去年、アルバート・エリスの「神経症者とつきあうには―家庭・学校・職場における論理療法
突っ込みが細かくて面白い序文から引用します。
コージブスキーは『科学と正気』という彼の有名な著書の中で、「アイデンティティ(あるものが何であるか)を表す『is』(である)」に文句をつけている。私たちが「Aは怠けている」というときは、「Aは朝起きない」とか、「Aは朝起きるのを拒否している」という記述的文章とは、まったく違う意味になるというのが彼の主張である。「Aは怠けている」という文章は、意味が如何ようにもとれる。つまり、さまざまな抽象段階が考えられる。たとえば、「Aは朝ときどき起きない」という意味かもしれないし、「Aは朝めったに起きない」ということかもしれない。また「Aは朝は早く起きるのだが、シャワーを浴びるのに時間がかかる」ということかもしれない。あるいは「Aは朝わざと遅く起きる」ということもあるだろうし、「Aは朝早く起きようと努力はしているが、自分の意志の反してまた眠ってしまう」ということもあろう。「Aは怠けている」という文章記述は、Aは如何なる状況でも常にものごとを遅くしたり、何もしなかったりすることを意味しているように思われる。だが、常に怠けるということがあり得るだろうか? もちろん普通はあり得ない。しかしながら、私たちはこのように如何ようにもとれる文章を絶えず用いている。
(中略)
技術的には私は正しい。しかもコージブスキーより、ときにはボーランドよりもいい線までいった。というのは彼らは「私たちはAを神経症者とよぶことができる」といっているが、これはやや正確性を欠く使い方だからである。彼らは「である」から脱却したものの、それにはAにレッテルをきちんと貼れるという含みがある。しかしレッテルは貼れない! コージブスキーの哲学の本質は、すべてのものは変化するという考え方だからである。それゆえ、バラは赤「である」とはいえない。なぜなら、それはやがて黒くなるかもしれないし、他の色に変色するかもしれないからである。それはバラ「である」とさえいえないのかもしれない。なぜなら、それは埃になるかもしれないし、他の要素に変わるかもしれないからである。同様にAも<神経症者>「である」といえない。なぜなら彼の神経症は変わるかもしれないからである。つまり神経症の症状は消えることもありうる。また好転するかもしれないし、悪化するかもしれない。しかし、コージブスキーやボーランドが「である」回避法で主張するようないい方は、つまり「私はAを神経症者として分類する」とか「私はAを神経症者としてみる」といういい方は、少なくとも技術的にはまだ正確とはいえない。あまりにも一般的で、あまりにも統括的である。したがって、むしろこういった方がよい。「私はAを時間の流れの中のある瞬間、神経症者であると識別する。ということは、彼は神経症的にまったく行動しない時もあるが、大体は神経症であることを知っているということである。また彼の神経症的な行動が変わることもありうるし、神経症の症状が少なくなることもある。あるいは将来まったく神経症でなくなるかもしれない」と。
『神経症者とつきあうには―家庭・学校・職場における論理療法』 アルバート・エリス / 國分康孝 監訳 川島書店
この序文では「である」を回避するための考え方についてとことん説明してくれます。ここだけでもこの本を読む価値があると思いました。レッテルに対するわかりやすい説明も納得させてもらいました。
しかし本文は、当然にすごかった。通して読むと「とても役に立つ一冊」だと思います。こちらもぜひ読んでみてください。"読むべきだとは言いませんが、読んで欲しいなとは思います"
amazon → アサーショントレーニング―さわやかな「自己表現」のために
2009年発行の改訂版もあります。
amazon → 改訂版 アサーション・トレーニング ―さわやかな〈自己表現〉のために
amazon → 神経症者とつきあうには―家庭・学校・職場における論理療法
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2011年07月09日
三つの対人関係の持ち方 ─── 『アサーション・トレーニング』(1)
「建前」を恐れること。
恫喝は、怖くない。罵りも、怖くない。それらは相手の感情が見えるから。
本当に怖いのは、自分に見せられている姿が偽りである状況、反転が多く何を信じてよいのかわからない状況、何も知らされない状況。
事実がどうなっているのか見えていないと、適切な行動も見えない。
新卒で入った会社は、みな普通程度に「大人」だったので、内心思うことはあっても「きちんと」対応し、大きな衝突が表立つことはありませんでした。手の内を見せても大丈夫な相手と飲みに行ったりした時などは状況が違っていたのかもしれませんが、みな社交辞令の振舞いを当然と、どんな相手にも笑顔を向けていたように記憶しています。
しかし、女子更衣室はドア一枚で隔てただけなのに異空間で、華やかな笑顔や思いやりの言葉の裏にある思いを聞くにつれ、表面の言動をそのまま受け取ってはいけないのだと知りました。
相手の言葉を真に受けるのは馬鹿だ、本音は聞かされる相手の迷惑になる、個人的な話を又聞きしても知らないふりを通すべき、「和やかな関係」を保つための暗黙のルールを学ぶにつれ、私自身、本心を言わないようになりました。
そんな私が購入し、蛍光ペンでたくさん線を引いていた本があります。「表面的には問題が起きていない浅い付き合い」への反抗だったのかもしれません。
今になって読み返して、ようやく著者の意図を理解できた記述も多々あり、「表面は和やかな浅い関係」ではない関係を望む人、「意思を伝えたい人・意思を伝えてもらいたい人」には読んで欲しいと思ったので、抜粋記事を掲載します。
平木典子さんの「アサーション・トレーニング」。人間関係の持ち方、自分の意見の表現の仕方について。
あるアメリカの心理学者は、人間関係のもち方には、大きく分けて三つのタイプがあると言っています。「第一は、自分のことだけ考えて、他者を踏みにじるやり方、第二は、自分よりも他者を常に優先し、自分のことを後回しにするやり方、第三は、第一と第二のやり方の黄金率ともいうべきもので、自分のことをまず考えるが、他者をも配慮するやり方」です。
アサーションとは、この三種類の対人関係のもち方の中では、第三のやり方をいいます。そして、私の実施している「アサーション<自己表現>トレーニング」では、第一のやり方のことを「攻撃的」または「アグレッシブ」、第二のやり方のことを「非主張的」または「ノン・アサーティブ」、第三のやり方を「アサーティブ」と呼びます。
a 非主張的自己表現
<非主張的>とは、自分の気持ちや考え、信念を表現しなかったり、しそこなったりすることで、自分から自分の言論の自由(人権)を踏みにじっているような言動をいいます。これには、自分の気持ちや考えを言わないだけではなく、あいまいな言い方をしたり、言いわけがましく言ったり、他人に無視されやすい消極的な態度や小さな声で言うことも含まれます。このような言い方は、一見、相手を立てているようだったり、相手に配慮しているようにみられますが、暗に「私の気持ちや考え、言っていることは取るに足りません 無視しても結構です」と伝えているようなもので、自分の気持ちに不正直で、もちろん、相手に対しても率直ではありません。非主張的な言動をしているときは、相手に譲ってあげているように見えながら、自信がなく、不安が高く、それを隠して卑屈な気持ちになっていることが多いものです。
したがって、非主張的な言動をした後は、「自分はやっぱりダメだ」といった劣等感や、「どうせ言っても分かってもらえないに決まっている」といったあきらめの気持ちがつきまといます。また、相手に対しては、「譲ってあげたんだ」といった恩着せがましい気持ちや、「人の気も知らないで」といった恨みがましい気持ちが残ります。もし本当に相手を配慮し、尊重して相手に同意したり、譲ったりした場合は、自分の決断でそうしているので、気持ちはさわやかで、未練は残らないはずです。非主張的な言動の後では、分かってもらえなかったと思う気持ちや傷ついた感じが残りがちなので、惨めになります。そもそも自己表現してないわけなので、相手に分かってもらおうと期待することは欲ばりなのですが、つい「黙って引いてあげたのに」とか、「相手を立てたのに分かってくれない」といった甘えや、「思いやりのない人だ」とか、「鈍感な人だ」といった相手への軽蔑の気持ちをもったりもします。
このようにして我慢や恨みが積み重なると、欲求不満や怒りがたまり、人とつき合うのがおっくうになったり、頭痛、肩こり、神経症の胃痛などの心身症やうつ状態になります。また、弱い立場の相手に対しては、不当に八つ当たりをしたり、意地悪をしたりすることにもなりかねません。本人自身はていねいに優しくしているつもりでも、生き生きした感じはなく、無表情で、慇懃無礼な振舞いをしていたりします。
一方、非主張的な対応をされた相手も、結果的に被害を被ります。まず、あなたが同意してくれれば自分と同意見、譲ってくれたときはあなたを思いやりのある人だとありがたく思うのが普通です。あなたの真意は表現されていないわけですから、よほどあなたの言っていることに猜疑心のある人でない限り、それが素直な反応です。ところが、その結果、後で恨まれたり、軽蔑されるのではたまったものではありません。また、優先されてばかりいると、あなたに対して優越感や憐れみの気持ちをもったり、逆に従わせてしまったという罪悪感や苛立ちを感ずるかもしれません。
b 攻撃的自己表現
<攻撃的>とは、自分の意見や考え、気持ちをはっきり言うことで、自分の言論の自由を守り、自分の人権のために自ら立ちあがって、自己主張してはいるのですが、相手の言い分や気持ちを無視、または軽視して、結果的に、相手に自分を押し付ける言動をいいます。
したがって、それは、相手の犠牲の上に立った自己表現・自己主張であり、自分の言い分は通っても、相手の気持ちを害したり、相手を不必要に支配したりすることになります。
このような言動をしている人は、一見、表現豊かで、ハキハキものを言っているように見えますが、相手を配慮しないで自分のことだけを主張しているわけなので、結局、相手を踏みにじっていることになります。そこには、「自分が一番」とか「あなたはダメ」といった、その場の主導権を握り、相手より優位に立とうとする態度や、「勝ち負け」でものごとを決めようとする姿勢が見え隠れして、自分に不正直ともいえます。
つまり、攻撃的とは、たんに暴力的に相手を責めたり、大声でどなったりするだけではなく、相手の気持ちや欲求を無視して、自分勝手な言動をとったり、巧妙に自分の欲求を相手に押し付けたり、相手を操作して自分の思い通りに動かそうとしたりすることをいいます。もちろん、不当な非難、侮辱、皮肉、八つ当たりなども含まれます。また、雑談や何気ない会話をしているときの「だめ押し」や「一言多い発言」もそうです。
このような言動をしている人は、堂々としているように見えるわりにはどこか防衛的で、必要以上に威張っていたり、強がっていたりします。また、自分の意向は通っても、その強引さのために後味の悪いことが多く、それが自分の本意でなかったことに気づき、後悔することになります。
また、攻撃的な対応をされた相手は、自分の意に反して服従させられた気持ちになり、軽く見られ、バカにされた気持ちは残っても、大切にされた感じにはなりません。その結果、傷つき、恐れて敬遠するか、同時に、怒りを感じて、復讐心を抱くかもしれません。
いずれにしても、お互いの関係は、相互尊重にはほど遠く、ギスギスしたものになりがちです。
c アサーティブな自己表現
<アサーティブ>とは、自分も相手も大切にした自己表現です。自分の人権である言論の自由のためには自ら立ち上がろうとしますが、同時に相手の言論の自由も尊重しようとする態度があります。アサーティブな発言では、自分の気持ち、考え、信念などが正直に、率直に、その場にふさわしい方法で表現されます。そして、相手が同じように発言することを奨励しようとします。
その結果としては、お互いの意見が葛藤を起こすこともあり得ると考えます。つまり、お互いが率直に話をすれば、自分の意見に相手が同意しないこともあるし、また、相手の意見に自分が賛同できるとは限らないことを知っています。むしろ、率直に話して意見や考えが一致すれば、それはラッキーだと思うのです。だから、葛藤が起こったときは、すぐさま折れて相手に譲ったり、相手が自分に同意してくれることを期待するのではなく、面倒がらずにお互いの意見を出し合って、譲ったり、譲られたりしながら、双方にとって納得のいく結論を出そうとするのです。
(中略)
さて、あなたの日ごろの言動がアサーティブであるかどうかを知るには、あなたと日常的に関係のある家族、友人、職場の上司や仲間、先生、隣人、親戚などと、どんなつき合いをしているか、思い出して、自分の気持ちに正直に耳を傾け、検討してみることです。その関係の中で、誰か特に支配的な人はいますか。誰かに対して、あなたは卑屈になったり、おべっかを使ったりしていないでしょうか。逆にあなたは誰かを利用したり、軽く扱ったりしてはいませんか。どんな状況でも、あなたは自分の気持ちをオープンに話しますか。状況によって、相手によって、自己表現が変わることはありませんか。
これ以降にも、自己主張すること・しないことと、その考え方について有効な記述がたくさんあるので、引き続きこの本の抜粋記事を掲載します。
amazon → アサーショントレーニング―さわやかな「自己表現」のために
2009年発行の改訂版もあります。
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2008年12月20日
鍵は自分の態度 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(5)
「つまり、わたしが誰かのために、そう、たとえば妻のために何かをしてあげようという気にならないのは、妻に対して箱の中にいるからだと、そうおっしゃるのですか」
「いや、厳密にはそうじゃない」
バドはそういうと、私の隣の椅子に座った。
「わたしの場合には、そうであることが多いというだけの話だ。少なくとも身近にいる人々に対してはね。じゃあ、君が奥さんに対するときも同じなのかどうか、それはわからない。それは君自身が考えることだ。」
『箱 ─── GETTING OUT OF THE BOX 』 ジ・アービンガー・インスティチュート 文春ネスコ
「でも、みんなが箱に入っている、あなた(ケイト)やバドのように成功した人までもが箱の中に入っているんだったら、このミーティングはいったい何の役に立つんですか」
「それは、こういうことなの。たしかに私たちはみな、時には箱の中に入ってしまうし、いつだってある程度はこの中に足をつっこんでいる。でも、この会社が成功したのは、わたしたち社員が箱の外にいる時間を作り出せたからなの。いつも完璧に箱から出ている必要がある、というわけじゃない。完璧だなんてとんでもない。せいぜいましになってきているといったところね。でもともかく、この会社の中核となる人々の質を向上させるための、具体的で組織的な方法に磨きをかけてきたわけ。この会社が他に抜きんでているのは、会社のあらゆるレベルのリーダーたちが、ある種の思考法を共有しているからなの。」
(同)
私がこの本を「役に立つ・いい本」だと思う理由は二つあります。
一つ目は、本に書かれている考え方「正しく物事を見る方法(見る目をゆがませる原因)についての知識を提供してくれること」と、「状況に反応するのではなく、本当に大切にすべきこその目的に添う行動をとることが、自分自身にも周囲にもよい結果を生み出すことを理解させてくれること」です。
二つ目は、ここで説明されている知識について素地のない読み手(主人公のトム)への態度の適切さ。レクチャー形式で進む物語の中で「指導する役の人物(≒著者)」が完全無欠の絶対者ではないので、余計な抵抗が生じません。
知っている人から見ると、知らない人がとっている振舞いの問題点はあからさまで、逐一「指導」することもできます。けれど、指導される側の人間が「自分の悪い点を指摘されている」と感じる状況でも、それを直言するのではなく(正解がわかっているので、直言や批判はいくらでもできる状況であっても)、判断を与えずに「本人が自分自身で答えを見つけるよう導く」ことを徹底しています。「意見」は単に一登場人物の考えとして語られるので押し付け感がありません。
「未熟で欠点の多いように見える人」であっても、自分と同じ「希望やニーズや心配や不安を持っている人間である」ことを理解し尊重し、提言する側の人自身も「自分が完璧な人間ではない」ことを明言し、大事なのは「完璧である」ことではなく「よりよくなる」ことをだというスタンスを保っていること。
「相手が箱に入っていることを責めることなく相手の箱の存在に気づくことができたら、そのほうがはるかにいいと思わないか。結局のところ、こっちだって時には箱の中に入ってしまうわけだから、箱の中にいるということがどういうものか、感覚的にわかっている。そして箱の外にいればこそ、箱の中にいるのがどういうことか頭でも理解できる。そして、こっちが箱の外に出た瞬間から、相手がひどい奴である必要もなければ、相手をひどい奴にする必要もなくなる。だから、つらい状況を悪化させるのではなく、よい方向に持っていくことができるようになるというわけだ。」
(同)
人が集まって何かを行う場で「自分が物事に接する態度」が及ぼす影響を知ることは重要なことです。
物事をゆがめずありのままに見、自分の中に生じた「適切な行動」への感情を尊重し、「ほんとうに望んでいる状況」を作り出すためにどうすることが最善かを考えた上で、実行することを選択すること。
人と人とが協力し合う関係を作るためには、「その場にいる一人一人の自覚」が欠かせません。その「一人一人の自覚の度合(=態度)」の平均値と、その場の活性度・協調性・目的達成推進力は比例します。
■発展の一冊 * この「箱 ─── GETTING OUT OF THE BOX 」を読んで、ある程度の時間が過ぎてから読むと有効だと思う本
amazon → 2日で人生が変わる「箱」の法則
概して、争っている人々は、争いがなくなるのを望んでいるものだ。子どもが喧嘩をしていれば、親はいさかいをやめさせたいと思う。横暴な上司のもとで働いている人は、上司が態度を改めてくれることを望み、弱い国の国民は、列強からないがしろにされたくないと願う。このように、人々は問題の解決を望んでいるのだ。
しかし、それぞれの立場によって、好ましい解決の仕方は異なる。争いが長引き、問題が解決しないのも不思議はない。
だが、もしかしたら私たちには、そういった問題の「解決」以上に望んでいるものがあるのではないだろうか? 家庭内の対立、職場での対立、世界の対立は同じ一つの原因から起きているのではないか? そして、私たちはその原因を誤解し、問題を知らず知らずのうちに長引かせているとしたら? こうした「原因」を明らかにすることこそ、本書で吟味される重要な問いなのである。
『2日で人生が変わる「箱」の法則』 アービンジャー・インスティチュート 祥伝社 (まえがき)
タイトルや装幀などもろもろが中身と一致していないので、必要としている人から手に取られる可能性が非常に低いと思われる本。
「箱 ─── GETTING OUT OF THE BOX 」の著者による、自己欺瞞が元になる対立につき、視野を拡大発展させる内容。
身近な人との対立を回避する方法、という前作の物語とは、まったく別の成分が多分に含まれていますが、その部分に反応できるかどうかはその人次第。このテーマに特に関心のない人でも、「箱 ─── GETTING OUT OF THE BOX 」から吸収できるものがあった人なら、それと関連・発展した考えと態度を学び取ることができると思います。
ただ、先に出版された「箱─ GETTING OUT OF THE BOX 」と違い、自分で「読解」しないと理解できない文章が多いように感じます。「自己欺瞞」の話も出ますが、前作を読んでいない人が突然この本を読んでも要旨をつかめない可能性があるような。
しかし、「箱」を読んで日々の生活に役立てようと志した人なら必ず浮かぶであろう疑問への対処を知りたい人に有効だと思う(私には役立った)ので、「箱」を読んで良いと思い、「でもこういうときはどうするのよ!」と切実な疑問を持った人にはおすすめです。
【大事な補足】※先の記事の内容と同じです。この本の紹介を初めて読む方のみ読んでください。
文春ネスコから2001年に出版されたこの本は、今絶版になっています。そして2006年、金森重樹さんの監修により、大和書房から復刊しました。アマゾンなどの本紹介では「同じ内容」となっていますが、まるきり同じ内容ではありません。
復刊本は、多くの人に読みやすく、中身を掴みやすいようにと工夫をこらした「原本解説一体型」のつくりになっています。見比べ・読み比べをしないとわからないような違いなので、絶版本を既読の方が改版本を読んでも、変更点に気付かない可能性もあります。
改行を多用することで大事な語句に意識を向けさせる、小見出しで章の要点を説明をするなどの工夫による「中身を受け取りやすくする効果」は、間違いなくあると思います。ただ、それにより失われているものもあります。
なので、「本を読むのは苦じゃない。読み取り力に不安もない。せっかくだったらいいものを読んだほうがいい」という方は、絶版になった文春ネスコの「箱」をおすすめします。古書での購入、もしくは図書館を探してみてください。
しかし、私がこの本を読んでもらいたい、紹介記事を書こう、と思ったのは、「本が読者に伝えようとしている内容を、読んだ人が理解し、日々の生活にプラスに作用する糧になればいい」と考えたからでした。
改版の作り手さんたちも、「理解されないまま読み流されてしまうより、手に取られる機会のないまま絶版になってしまうより、失う部分があっても多くの人に浸透する本にすることを目指そう」と、工夫を凝らされたのだと思います。
ということで、「早く読んでみたい」「まずは中身が知りたい」「理解できないよりサポート込みで詳しく教えてもらうほうが安心」という方には、入手の容易な大和書房の「自分の小さな「箱」から脱出する方法」をおすすめします。
せっかくだからきっちり読んでみようという方には、文春ネスコの「箱」を読んだあと、文庫本付録の解説を読むような気持ちで「自分の小さな「箱」から脱出する方法」を読むことをおすすめします。「拾いこぼし」を減らせますし、原作を読んでから映画を見るような感じで面白いかとも思います。
■【原本】おすすめはこちら 図書館か古書でどうぞ
amazon → 箱―Getting Out Of The Box
■【復刊・改版】新刊が入手が可能 + 内容理解の手引き補足付
amazon → 自分の小さな「箱」から脱出する方法
■ せっかくだったら、この本の紹介の別記事もあわせてどうぞ。全部で5記事あります。
すべての行動は正しい前提の上に ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(1)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111040668.html
相手が問題を起こす必要性 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(2)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111158895.html
元はと言えばアイツが悪い ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(3)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111227937.html
行動を変えても無駄 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(4)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111381400.html
鍵は自分の態度 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(5)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111475473.html (この記事です)
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posted by きなり at 19:41 | Comment(2) | TrackBack(0) | 読んで欲しい本
2008年12月18日
行動を変えても無駄 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(4)
「もうあなたのことがわからなくなった。それだけじゃない。あなたはわたしのことなんか、ろくに気にかけてくれていない、そんな気がするの。わたしはただのやっかいなお荷物でしかないのよ。最後にあなたに愛情を感じたのがいつだったか、もう思い出せないくらい。わたしに残っているのは冷たい気持ちだけ。あなたは家でも仕事に埋もれてしまっている。ほんとうのことをいうと、あなたに対しては何も強い感情を持てないの。持てたらいいと思うけれど、でも何もかもごまかしだっていう気がして。たしかに同じ屋根の下に住んではいる、でも、共に生きているわけじゃない。同じ家の中で、それぞれの生活をバラバラに続けているだけなのよ。すれ違ったときに、互いのこれからの予定を確認したりする。ほほえんだりもするけれど、そんなのは全部嘘っぱち。まるで気持ちがこもっていないもの」
『箱 ─── GETTING OUT OF THE BOX 』 ジ・アービンガー・インスティチュート 文春ネスコ
これが、自分の伴侶の、もしくは、自分自身の中にある声だとしたら。
または、実の親の、子どもの、俯いた胸の奥にある声だとしたら。
「つまり、人間は、相手が自分をどう思っているのか感じることができる、これがポイントなんだ。ちょっとした時間さえあれば、自分が相手からなんとかしなくてはならない問題と見なされているのか、操られているのか、策略を巡らされているのかがわかる。偽善だってかぎつけられる。見せかけの親切の下に隠れている非難を感じ取ることもできる。そして往々にして、そういった相手の態度を恨めしく思う。相手が歩き回り椅子の角に腰かけて、話を聞こうじゃないか、君のことには大いに関心があるといったふりをしてみても、家族についてたずねたり、あるいは仕事の効率をもっとよくしようとあの手この手を使ってみせても、人は、相手が自分をどう見ているかを感じ取り、それに対して反応するんだ」
(同)
人との関係が「思うようにならない」ときに、どうするか。
状況を嘆いて発散することが有効な場合もあるでしょうし、その相手と関係を絶つのも方法のひとつかも知れません。
ただ、中には「なんとかしなきゃいけない関係」もあると思います。じゃあどうすればいいか、ということで、「問題の相手」に対してアプローチを試みるときに、この本の考え方は役に立ちます。
もしも自分が「自己欺瞞に陥っている」=「箱に入っている」状態だとしたら、相手を変えようとしたり、張り合ったり、その状況から離れたり、ひいてはコミュニケーションをとろうとすることさえ、相手との関係を悪化させる原因になります。
それを解決するために使えるものはないかと、「新しい知識やテクニックを得ようとする」という行動もとりがちですが(そしてこんな状況の時には「相手を自分の意のままに操る方法」系のタイトルの本を見つけると思わず手にとってしまいがちですが)、自分のことを操ろう、コントロールしてやろうという考えを持つ「よこしまな相手」と接すると、たいていの人は防衛反応が働きますので、結果「なんだかわからないけれど不安定な感じ・嫌な感じ」を与えることになってしまいますので、付け焼刃の知識を用いる場合は特に注意が必要です(←自分向け)。
と、いうことで、箱に入っているときは、どんな行動も役に立ちません。逆効果です。表面的に行動を変えてみても、相手は「心の奥に抱いているもの」を見抜いてしまいますので、「自分を変えること」すら駄目なんです。
では何かというと、相手と接するとき、「箱から出ていること」、ただそれだけが必要です。
「ではどうやって箱から出るの?」「そもそも箱に入るというのはどういうこと?」という疑問を持たれた方、どうぞ本を読んでみてください。
この本の紹介は次回(5回目)で締めくくります。本の紹介だけで、実際の方法に触れていないと感じている方もいらっしゃると思いますが、「知識として結論だけ、要点抜粋だけを読んだとしても、意味が本当に『腑に落ちる』状態にはなり得ませんので、興味を持たれた方はぜひ「本そのもの」を手に取り最初から最後まで読んで、自分のなかに「自分なりの結論」を成立させて落とし込んで、実生活の糧にしてもらいたいと、心から願っています。
【大事な補足】※先の記事の内容と同じです。この本の紹介を初めて読む方のみ読んでください。
文春ネスコから2001年に出版されたこの本は、今絶版になっています。そして2006年、金森重樹さんの監修により、大和書房から復刊しました。アマゾンなどの本紹介では「同じ内容」となっていますが、まるきり同じ内容ではありません。
復刊本は、多くの人に読みやすく、中身を掴みやすいようにと工夫をこらした「原本解説一体型」のつくりになっています。見比べ・読み比べをしないとわからないような違いなので、絶版本を既読の方が改版本を読んでも、変更点に気付かない可能性もあります。
改行を多用することで大事な語句に意識を向けさせる、小見出しで章の要点を説明をするなどの工夫による「中身を受け取りやすくする効果」は、間違いなくあると思います。ただ、それにより失われているものもあります。
なので、「本を読むのは苦じゃない。読み取り力に不安もない。せっかくだったらいいものを読んだほうがいい」という方は、絶版になった文春ネスコの「箱」をおすすめします。古書での購入、もしくは図書館を探してみてください。
しかし、私がこの本を読んでもらいたい、紹介記事を書こう、と思ったのは、「本が読者に伝えようとしている内容を、読んだ人が理解し、日々の生活にプラスに作用する糧になればいい」と考えたからでした。
改版の作り手さんたちも、「理解されないまま読み流されてしまうより、手に取られる機会のないまま絶版になってしまうより、失う部分があっても多くの人に浸透する本にすることを目指そう」と、工夫を凝らされたのだと思います。
ということで、「早く読んでみたい」「まずは中身が知りたい」「理解できないよりサポート込みで詳しく教えてもらうほうが安心」という方には、入手の容易な大和書房の「自分の小さな「箱」から脱出する方法」をおすすめします。
せっかくだからきっちり読んでみようという方には、文春ネスコの「箱」を読んだあと、文庫本付録の解説を読むような気持ちで「自分の小さな「箱」から脱出する方法」を読むことをおすすめします。「拾いこぼし」を減らせますし、原作を読んでから映画を見るような感じで面白いかとも思います。
■【原本】おすすめはこちら 図書館か古書でどうぞ
amazon → 箱―Getting Out Of The Box
■【復刊・改版】新刊が入手が可能 + 内容理解の手引き補足付
amazon → 自分の小さな「箱」から脱出する方法
■ せっかくだったら、この本の紹介の別記事もあわせてどうぞ。全部で5記事あります。
すべての行動は正しい前提の上に ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(1)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111040668.html
相手が問題を起こす必要性 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(2)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111158895.html
元はと言えばアイツが悪い ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(3)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111227937.html
行動を変えても無駄 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(4)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111381400.html (この記事です)
鍵は自分の態度 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(5)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111475473.html
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2008年12月14日
元はと言えばアイツが悪い ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(3)
「さて、わたしが息子に対して箱の中にいるとしましょう。そうすると、わたしは息子のことをどう見るかしら。夜遅く帰ってくることをどう思うかしらね」
「そうですね。無責任な子だと思うでしょうね」
「ええ、そうね。ほかには?」
「いつもやっかい事ばかり起こして、と思う」
「それに礼儀知らずだとも」とバドが付け足した。
(中略)
ケイトはホワイトボードに、わたしたちがいったことをまとめた。
「つまり、こうなるわけね。
さて、わたしが箱の中に入っていて、息子が無責任で礼儀知らずでやっかい者だと感じていたとすると、この場合どういう行動に出るかしら」
「そうですねえ」
わたしは考えた。
「厳しく躾けようとするだろうな」バドがいった。
「それに、非常に批判的になりますね」とわたしがいった。
「ええ、それから?」
ケイトは、わたしたちのいったことを図に書き加えた。
「おそらく、息子さんを監視して、やっかい事を起こさせまいとするでしょうね」
わたしがいった。
ケイトはそれらを図に加えると、脇にどいた。
「さて、息子が自分の感情に背いて、わたしに対して箱に入ったとしましょう。箱の中の息子は、わたしの躾や批判や監視をどう見るかしら」
「おそらく独裁的だと思うでしょうね。あるいは優しさに欠けると」
「それに、口うるさい」バドが付け加えた。
「はい、『独裁的』、『優しさに欠ける』、『口うるさい』」
ケイトはそういいながら、さらに図に書き加えていった。
「さて、ではどうなったか見てみましょう。
息子が箱の中に入ってしまって、わたしのことを優しさに欠ける口うるさい独裁者だと思っているとしたら、息子は家に早く帰ってきたいと思うかしら、それとも遅く帰ってきたいと思う?」
「そりゃあ遅くでしょう。うんと遅く」
そうわたしが答えると、バドが続けた。
「息子さんは、あなたがしてほしいと思うことを、ますますやりたがらなくなるでしょうね」
「そう」ケイトは、ブライアン(息子)の側から自分の側に一本矢印を書いた。
「それが繰り返されるわけよね」
そういいながら、二人のあいだにさらに(ケイトの側からブライアンの側に向かう)矢印を付け加えた。
「つまり、互いに、実は相手にさせたくないと思っていることをさせようとしているわけ」
「そうなんだよ」
バドが口を挟んだ。
「トム、この時点で君がケイトに、今一番望んでいるのは何かとたずねたら、ケイトはどう答えると思う」
「息子さんには、もっと責任感のある、面倒を起こさない人間になってほしいと思っていると、そうおっしゃるでしょうね」
「その通り。しかるに、箱の中にいるケイトは、息子さんにどういう影響を及ぼしているんだろう。物事を、自分の望む方向に進めているだろうか」
わたしは図を見た。
「いいえ、ご自分で望んでもいないことを引き起こしているような気がします」
「そうなんだ。ケイトは、息子が自分がいやがることをするよう、しむけている」
わたしはしばらく考えてからいった。
「でも、そりゃあ無茶だ。どうしてそんなことをするんです。なんでそんなことをし続けるんですか」
「すばらしい質問だ。じゃあ、ケイトご本人に聞いてみたらどうだい」
「そうねえ」
ケイトはそういうなり、黙り込んだ。考えをまとめているようだ。
「それはつまり、わたしには自分が何をやっているのかわかっていなかったということじゃないかしら。私は箱の中にいる、つまり自分を裏切っているわけ。そして、箱の中にいると物事がちゃんと見えなくなる。自分や他の人をありのままに見ることができなくなってしまう。自分が求めているものすらわからなくなってしまうんでしょうね。この場合にどうなったかをお話しすれば、どういう意味かわかってもらえると思う。
もうわかったでしょうけど、わたしは息子に対して箱に入っていた。お二人がおっしゃったこと、つまり厳しい躾や批判や監視、そういったことをすべてやってみた。でも問題は、行動そのものではなくそのやり方だったの。子どもというのは、時には厳しく躾けなければならないものよ。でも、わたしが息子を躾けるにしても、それは、息子が躾を必要としていたからじゃない。息子に生活をめちゃくちゃにされていると思って、かんかんになって躾けていたのね。躾けているあいだもそれ以外のときも、わたしは箱の中に入り続けていたのよ。息子を、手を貸してあげるべき人間としてではなく、叱る対象としてしか見ていなかった。息子はそれを感じて反発していたのね」
『箱 ─── GETTING OUT OF THE BOX 』 ジ・アービンガー・インスティチュート 文春ネスコ
主人公トムに箱の説明をするため、最初に説明をしてくれていたバドに加え、ケイトという人物が登場します。トムとバド、そしてケイトの三人が対話をしながら、ホワイトボードに書かれた絵を見せながら、本の中で「箱のミーティング」は展開していきます。
自分が箱に入る(自己欺瞞により自己正当化をする)ことによって、接する相手も箱に入れてしまう。
「相手にあんな風だから、自分もそれにふさわしい行動をとったまでだ」という心中と、その心中に対応した言動が、さらに相手に良くない行動を引き起こす口実になるという、「お互いに、相手が、自分のして欲しくないことをするように仕向ける」、このコントの掛け合いのような行動の連鎖反応を、この本では「共謀関係」と呼んでいます。
引用のケイトの話はまだ先があります。このやりとりを自分の日常のどこかと重ね見た方、その共謀関係から脱する方法を知りたいと思った方、ぜひ本を読んでみてください。
うまくいっていない関係をなんとかしたいと思っているときに、「やっても効果の無い方法」についてを、次回に。
【大事な補足】※先の記事の内容と同じです。この本の紹介を初めて読む方のみ読んでください。
文春ネスコから2001年に出版されたこの本は、今絶版になっています。そして2006年、金森重樹さんの監修により、大和書房から復刊しました。アマゾンなどの本紹介では「同じ内容」となっていますが、まるきり同じ内容ではありません。
復刊本は、多くの人に読みやすく、中身を掴みやすいようにと工夫をこらした「原本解説一体型」のつくりになっています。見比べ・読み比べをしないとわからないような違いなので、絶版本を既読の方が改版本を読んでも、変更点に気付かない可能性もあります。
改行を多用することで大事な語句に意識を向けさせる、小見出しで章の要点を説明をするなどの工夫による「中身を受け取りやすくする効果」は、間違いなくあると思います。ただ、それにより失われているものもあります。
なので、「本を読むのは苦じゃない。読み取り力に不安もない。せっかくだったらいいものを読んだほうがいい」という方は、絶版になった文春ネスコの「箱」をおすすめします。古書での購入、もしくは図書館を探してみてください。
しかし、私がこの本を読んでもらいたい、紹介記事を書こう、と思ったのは、「本が読者に伝えようとしている内容を、読んだ人が理解し、日々の生活にプラスに作用する糧になればいい」と考えたからでした。
改版の作り手さんたちも、「理解されないまま読み流されてしまうより、手に取られる機会のないまま絶版になってしまうより、失う部分があっても多くの人に浸透する本にすることを目指そう」と、工夫を凝らされたのだと思います。
ということで、「早く読んでみたい」「まずは中身が知りたい」「理解できないよりサポート込みで詳しく教えてもらうほうが安心」という方には、入手の容易な大和書房の「自分の小さな「箱」から脱出する方法」をおすすめします。
せっかくだからきっちり読んでみようという方には、文春ネスコの「箱」を読んだあと、文庫本付録の解説を読むような気持ちで「自分の小さな「箱」から脱出する方法」を読むことをおすすめします。「拾いこぼし」を減らせますし、原作を読んでから映画を見るような感じで面白いかとも思います。
■【原本】おすすめはこちら 図書館か古書でどうぞ
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■【復刊・改版】新刊が入手が可能 + 内容理解の手引き補足付
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■ せっかくだったら、この本の紹介の別記事もあわせてどうぞ。全部で5記事あります。
すべての行動は正しい前提の上に ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(1)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111040668.html
相手が問題を起こす必要性 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(2)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111158895.html
元はと言えばアイツが悪い ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(3)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111227937.html (この記事です)
行動を変えても無駄 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(4)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111381400.html
鍵は自分の態度 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(5)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111475473.html
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2008年12月13日
相手が問題を起こす必要性─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(2)
つまり、驚くべきことなんだが、こっちが箱の中にいると、相手が問題を起こす必要性が出てくる。つまり、問題が必要になるんだ。
『箱 ─── GETTING OUT OF THE BOX 』 ジ・アービンガー・インスティチュート 文春ネスコ
この本では、自己欺瞞のことを「箱」と呼んでいます。
この「箱」について、主人公のトム・コーラン ─── ザグラム社の上級管理職試験に合格し、入社して一カ月、「いつも一番早く出社して、一番遅くまで残業していた。仕事には十分集中できていたし、目標はきちんと達成してきている。妻にはよく文句をいわれるが、今後昇進のチャンスがあったときにライバルになりそうな同僚よりいい仕事をし、他に抜きんでようと努めてきた。恥じることは何一つしていない」 ─── がある日、専務兼副社長のバドから「一対一の集中ミーティング」を受ける、というシチュエーションで物語が展開していきます。
読者である私たちは、主人公トムの視線で話を訊くことになります。なので、著者の説明に対し疑問に思うことは、ほとんどすべてトムの口から発せられます。そしてその疑問への応答がなされます。
なので、この物語を読むことで、「箱についてのミーティング」を疑似体験することができます。
「だって、箱の中に入っている人は、相手を箱の中に入れようとするでしょう? たとえば、情報を隠すものだから、他の人にすれば、同じように情報を隠してもいいんだということになる。周りの人をコントロールしようとして、当然だけど抵抗を受ける。するとますますがっちりコントロールしなくては、と思う。あるいは、資源を押さえ込むもんだから、相手も自分たちの資源を守らなくてはと思う。自分の足を引っ張るといっては他の人たちを責めるものだから、相手はもっと足を引っ張ってもいいんだという気になってしまう、といった具合にね。
そうしてそのあいだじゅう、ジャックがあんなことをしなければ、リンダがこんなことをしなければ、あの部門がもっとまともなら、会社がちゃんと筋道をつかんでいれば、問題は解決するのに、と思っているわけ。でもそれは嘘。たとえジャックやリンダやあの部門や会社に問題があったとしてもね。そういうものを責めるのは、そうすれば、欠点を直しそこなっている自分自身を正当化できるからなの。
つまり、組織の中で、一人の人間が箱の中に入ってしまい、成果をあげることに集中できなくなってしまうと、その同僚たちも、成果をあげることに集中できなくなっていくわけ。共謀関係がどんどん広がっていって、結局は同僚同士が対立し、作業グループが対立し、部署のあいだに対立が生まれる。組織を成功に導くために力を貸そうと集った人々が、結局は、互いに欠点を見つけては喜び、互いの成功をねたむことになる」
「でも、それじゃあまるで狂気の沙汰じゃありませんか」
(同)
ええ、狂気の沙汰です。そして、日常良くある光景です。
この「つばぜり合い」 ─── この本では共謀関係と言っています ─── については次回記事にて。
「それをどうにかするには?」ということに興味を持った方、本を読んでみてください。
***
【大事な補足】※ここから後は先の記事の内容と同じです。この本の紹介を初めて読む方のみお読みください。
文春ネスコから2001年に出版されたこの本は、今絶版になっています。そして2006年、金森重樹さんの監修により、大和書房から復刊しました。アマゾンなどの本紹介では「同じ内容」となっていますが、まるきり同じではありません。
復刊本は「金森さんが、多くの人に読みやすく、中身を掴みやすいように工夫をこらしてあり、あえていうなら「原本解説書一体型」。見比べ・読み比べをしないとわからないような形での補足なので、初めて読む人には、それが「解説書一体型」になっている本だとわからないと思います。絶版本を読んでいて改版本を読んでも違いに気付かない可能性もあります。
改行を多用することで大事な語句に意識を向けさせる、小見出しで章の要点を説明をするなどの工夫による「中身を受け取りやすくする効果」は、間違いなくあると思います。ただ、それにより失われているものもあります。
私がこの本を読んでもらいたい、紹介記事を書こう、と思ったのは、「本が読み手に伝えたいと思っていることを、読んだ人が理解し、日々の生活にプラスに作用する糧となってほしい」と考えているからです。
改版の作り手さんたちも、「わからないまま読み終えてしまうよりも、失う部分があっても多くの人に浸透することを目指そう」と、工夫を凝らされたのだと思います。
なので、「活字慣れして本を読むのは苦じゃない。読み取り力に不安もない。せっかくだったらいいものを読んだほうがいい」という方には、絶版になった文春ネスコの「箱」をおすすめします。古書での購入、もしくは図書館で探してみてください。。
「手っ取り早く中身が知りたい、いろいろ詳しく教えてくれるなら言うことなし」という方は、大和書房の「自分の小さな「箱」から脱出する方法」が入手しやすいと思います。
せっかくだからきっちり読んでみようという方は、文春ネスコの「箱」を読んだあと、文庫本付録の解説を読むように「自分の小さな「箱」から脱出する方法」を読む、というのが、原作を読んでから映画を見るような感じで、面白いかと思います。
■【原本】おすすめはこちら 図書館などでどうぞ
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■【解説同梱の改版】新刊が入手が可能 + 原本に直接解釈書き込み済み版
amazon → 自分の小さな「箱」から脱出する方法
せっかくだったら、この本の紹介の別記事もあわせてどうぞ。全部で5記事あります。
すべての行動は正しい前提の上に ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(1)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111040668.html
相手が問題を起こす必要性 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(2)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111158895.html (この記事です)
元はと言えばアイツが悪い ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(3)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111227937.html
行動を変えても無駄 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(4)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111381400.html
鍵は自分の態度 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(5)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111475473.html
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posted by きなり at 17:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読んで欲しい本
2008年12月11日
すべての行動は正しい前提の上に ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(1)
「たとえば、君自身の仕事での経験を振り返ってみて、本当にやっかいだった人物を思い浮かべてみてほしい。共同作業をするうえで、どうしようもなく邪魔だった人物といってもいい」
簡単なことだ。前の会社のCOO(最高業務執行責任者)、チャック・スターリその人だ。まったくあいつはひどい奴だった。自分のことしか考えないんだから。
「ああ、たしかにそういう人がいました」
「さて、そこで質問だ。その人物は、君が彼のことを問題だと思っているのと同じくらい、自分に問題があると思っていただろうか」
「いいえ、絶対にそんなことはありません」
「たいがいそうなんだ」
そういうと、バドはわたしの真正面で立ち止まった。
「問題がある人物は、自分に問題があるといわれても聞く耳を持たない。それこそが自己欺瞞なんだ。自分に問題があるということが見えなくなっている。組織が抱えているいろいろな問題の中でも、これはもっともありふれていて、もっともダメージの大きい問題なんだ」
『箱 ─── GETTING OUT OF THE BOX 』 ジ・アービンガー・インスティチュート 文春ネスコ
[フォワイエ・プロジェクト]、本の紹介第一弾は、ジ・アービンガー・インスティチュートの「箱」です。この一冊につき、何回かに分けて記事にします。
「自分がどんなふうに物事を見・考え、接する相手をどう見・振る舞うか。」
この本に書かれていることを知っているかいないかで、物と人の見方に「必ず」違いが出ます。「自分の目は正しく物事を見ているか、本当に見えているのか」を確認するための本。
仕事や職場と限定せず、家族・友人・地域の方など、自分が接するあらゆる人との関係に応用できるので、対人ストレスが確実に減ります。 また、対人で制約されていた行動自由度が飛躍的に上がることも受け合います。
常に適切に振る舞うことを心がけ、実践している人こそ、読んで得るものが大きく即効性も高い一冊。
【大事な補足】
文春ネスコから2001年に出版されたこの本は、今絶版になっています。そして2006年、金森重樹さんの監修により、大和書房から復刊しました。アマゾンなどの本紹介では「同じ内容」となっていますが、まるきり同じ内容ではありません。
復刊本は、多くの人に読みやすく、中身を掴みやすいようにと工夫をこらした「原本解説一体型」のつくりになっています。見比べ・読み比べをしないとわからないような違いなので、絶版本を既読の方が改版本を読んでも、変更点に気付かない可能性もあります。
改行を多用することで大事な語句に意識を向けさせる、小見出しで章の要点を説明をするなどの工夫による「中身を受け取りやすくする効果」は、間違いなくあると思います。ただ、それにより失われているものもあります。
なので、「本を読むのは苦じゃない。読み取り力に不安もない。せっかくだったらいいものを読んだほうがいい」という方は、絶版になった文春ネスコの「箱」をおすすめします。古書での購入、もしくは図書館を探してみてください。
しかし、私がこの本を読んでもらいたい、紹介記事を書こう、と思ったのは、「本が読者に伝えようとしている内容を、読んだ人が理解し、日々の生活にプラスに作用する糧になればいい」と考えたからでした。
改版の作り手さんたちも、「理解されないまま読み流されてしまうより、手に取られる機会のないまま絶版になってしまうより、失う部分があっても多くの人に浸透する本にすることを目指そう」と、工夫を凝らされたのだと思います。
ということで、「早く読んでみたい」「まずは中身が知りたい」「理解できないよりサポート込みで詳しく教えてもらうほうが安心」という方には、入手の容易な大和書房の「自分の小さな「箱」から脱出する方法」をおすすめします。
せっかくだからきっちり読んでみようという方には、文春ネスコの「箱」を読んだあと、文庫本付録の解説を読むような気持ちで「自分の小さな「箱」から脱出する方法」を読むことをおすすめします。「拾いこぼし」を減らせますし、原作を読んでから映画を見るような感じで面白いかとも思います。
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すべての行動は正しい前提の上に ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(1)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111040668.html (この記事です)
相手が問題を起こす必要性 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(2)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111158895.html
元はと言えばアイツが悪い ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(3)
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行動を変えても無駄 ─── 『箱 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(4)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111381400.html
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정말로 전하고 싶은 것이 상대에게 전해지고 있습니까? ─── 『어설션 트레이닝』(3)
감정은 사건이 일으키는 것이 아니다─── 『어설션 트레이닝』(2)
3개의 대인 관계의 잡는 방법 ─── 『어설션 트레이닝』(1)
열쇠는 자신의 태도 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(5)
행동을 바꾸어도 낭비 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(4)
원래는 말하면 아이츠가 나쁘다 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(3)
상대가 문제를 일으킬 필요성─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(2)
모든 행동은 올바른 전제 위에 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(1)
2011년 07월 11일
정말로 전하고 싶은 것이 상대에게 전해지고 있습니까? ─── 『어설션 트레이닝』(3)
계속해서, 히라키 노리코씨의 「어설션 트레이닝」으로부터 인용합니다.
■자신의 판단을 결정하는 것과, 그 책임(취급 방법)에 대해서, 자신의 결정을 표현하는 것·하지 않는 것에 대해.
어설션권Ⅱ
우리는 누구나 다른 사람의 기대에 부응할지 여부 등 자신의 행동을 결정하고 그것을 표현하며 그 결과에 책임을 지는 권리가 있다.
이 인권은 요약하면, 당신은 자신에 대한 최종 결정권을 가지고 있다는 것입니다. 여러분은 자신이 어떤 식으로 느끼고, 어떻게 생각하고, 어떤 행동을 취할 것인지에 대해 결정하거나 판단할 수 있으며, 그 결과에 대해 책임을 질 수 있습니다. 알기 쉽게 하기 위해, 조금 극단적인 말을 하면, 다른 사람이 어떻게 생각하면, 당신의 느낌과 생각은 당신의 것이며, 다른 사람과 같은 느낌이나 생각을 해야 한다는 것은 없습니다. 또한 그것을 주장할 권리도, 바꿀 권리도 당신에게 있다는 것입니다.
그러므로 다른 사람들은 자신의 행동을 결정할 권리가 있으므로 다른 사람을 바꿀 수 없다는 것입니다. 한 유명한 미국의 심리요법가로, 「교류 분석」이라고 하는 사고방법과 방법을 개발한 E·번이라고 하는 사람은, 「과거와 타인은 바꿀 수 없다」라고 말했다고 합니다만, 이 사실은, 당신에게도 상대에게도 적용됩니다.
예를 들어, 오늘은 일이 끝나면 곧바로 집으로 돌아가 가족과 단관의 한때를 보내려고 하고 있었다고 합니다. 그런데 동료에게 한잔 마시고 돌아가려고 말을 걸었습니다. 「오늘은, 돌아가고 싶다」라고 말했습니다만, 한층 더 「조금 정도, 좋지 않을까」라고 초대되었습니다. 그렇다면 어떻게 합니까? 또한 행동을 결정한 후 그에 대해 후회하거나 뒷맛의 나쁜 생각을 하지 않겠습니까?
자주 있는 것은, 끈질기게 초대되어, 상대에게 강요당한 형태가 되어 어쩔 수 없이 함께 가 버립니다만, 가고 싶지 않았는데, 가족에게 무슨 말을 하자, 등과 언제까지나 잘 잘 해 버리는 것입니다. 또 한가지 자주 있는 것은, 가족에게 약속했기 때문에 어쩔 수 없다고 동료에게 말을 걸어 초대를 거절하고, 그 결과, 거절해서 신경을 쓰게 했는지, 가족과 이상한 약속을 하지 않으면 좋았다는 등, 사람을 신경쓰거나, 가족을 원망하는 방법입니다.
어쨌든, 이러한 후회는 자신의 결정에 책임을지지 않습니다. 만약 상대가 끈질기게 초대하려고 하고, 그렇지 않으면 함께 가기로 결심했다면, 그것은 당신이 결정한 것이며, “가기”라고 결정한 순간에, 그 행동의 책임은 당신이 취하면 좋은 것이 되는 것입니다. 즉 "가기"라고 결정한 것은 당신이기 때문에, 가고 싶지 않았던 것과 상대에게 책임을 질 수는 없습니다. 게다가, “가기”로 결정했다면, 그렇게 결정한 당신의 감정을 가족에게 이해하게 하는 것도 당신의 책임이며, 가족에게 원한 것을 포함하여 각오하는 것도 당신의 책임입니다.
동료에게 거절했을 때도 마찬가지입니다. 만약 가족과의 약속을 지키려고 결심하고 권유를 거절했다면, 당신의 결정은 가족의 책임이 아닙니다. 그 결과, 동료에게 나쁘게 생각되는 것을 각오하는 것도 당신의 책임에 있어서 하면 됩니다.
(중략)
상대가 할 수 없기 때문에, 당신에게 하고 싶다고 하는 이유만으로, 당신이 그것을 해야 한다고 하는 것은 없습니다. 당신이 하려고 생각하면 하면 되고, 스스로 결정했기 때문에, 가능한 한 그 일에 책임을 져야 합니다. 스스로 결정한 것이기 때문에, 책임은 취해야 하는 것이 아니라, 취할 수 있습니다.
스스로 결정해, 행동해 두면서, 그것이 상대의 희망을 이루는 것이거나 하는 경우, 상대의 탓으로 그렇게 되었다고 생각한다면, 그것은 자신의 결정권, 판단권을 포기하고 있는 것이며, 자신의 결정한 것을 타인의 책임으로 하려고 하는 조작적이고, 달콤한 삶의 방법입니다. 스스로 결정하고 그에 책임을 지는 권리는 다른 사람으로부터 밀어붙인 의무로서가 아니라 자신의 것으로 행사하고 싶은 것입니다.
「어설션·트레이닝 ─── 상쾌한 「자기 표현」을 위해서」 히라키 노리코 일본·정신 기술 연구소
■ 자신이 욕구를 겸손하게 표현하는 것과 타인에게 그 태도를 요구하는 것.
아이들 중에는, 예를 들면, 원하는 장난감을 망설이지 않는 아이, 용돈이 불필요하게 있을 때라도 결코 말하지 않는 아이, 가고 싶은 곳, 사고 싶은 것 등 자신의 의견이나 욕구, 기분을 말하지 않는 아이가 합니다. 그런 아이는, 아마 부모에게 자신의 욕구를 말해서는 안 된다든가, 부모의 권위에는 거역할 수 없다든가, 자신의 희망은 부모에 의해 결정된다고 하는 체험이 있는 것입니다. 이러한 아이는 자기 표현을 주저하거나 겸손하게 하기 위해 알 수 없고, 한편으로는 "좋은 아이"로 여겨져 점점 욕구와 희망을 가지는 것을 포기하는 습관이 붙어갑니다. 욕구를 의식하면 자신 안에 욕구 불만이 쌓이기 때문에, 그런 희망은 없게 하고, 길게(3)의 생각(자신의 욕구나 희망을 말할 때는, 삼가해야 한다)를 자기의 행동 기준으로 해 버리는 것입니다.
그리고 그 사고방식은 흔히 자신이 권위자가 되었을 때, 자신이 부모가 되었을 때에, 현재의 자, 아이를 향해 적응되는 것입니다. 즉, 당신의 자나 아이에게는 겸손하게 욕구를 내야 한다고 억누르고 싶어지는 것입니다. 권위에 약한 사람에게만 권위적인 언동을 하는 것을 자주 보지만, 이것은 이러한 메커니즘에 의해 일어나고 있습니다.
(같은)
■ 혼란하는 것이 더 이상하다? 이해하기 어려운 의사 표명.
감정 표현의 두 번째 요점은 말하는 것과 하는 일을 불일치하지 않는다는 것입니다. 니코니코 웃는 얼굴을 하고 '화가 났다'고 해도 기쁜지 배가 서 있는지 상대에게는 모릅니다. 상대는, 어떻게 받으면 좋을지 모르기 때문에, 어떻게 응하면 좋을까 당황할 것입니다. 이러한 때, 어설티브한 사람이라면 「어느 쪽을 전하고 싶습니까?」라고 묻겠지만, 흔히 많은 사람은, 필사적으로 어느 쪽인지를 찰아 답하려고 버리는 것입니다. 하물며, 약한 입장에 있는 사람(예를 들면 아이나 부하 등)이, 이 메시지를 계속 받으면, 항상 판단에 곤란한 상황에 처하기 때문에, 위협을 느끼거나 징계받고 있는 기분이 될 가능성도 나옵니다.
이러한, 말하고 있는 것(언어 표현)과 그에 따른 비언어 표현이 불일치한 표현을 「이중 구속적인 표현」이라고 합니다. 상대를 두 개의 모순된 메시지에 의한 구속 상태에 두고 상대를 움직일 수 없게 해 버린다는 의미입니다.
아이러니, 가시가있는 부드러운 말, 푹신한 얼굴을하면서 "좋아요"라고 말하는 등은 이중 구속 메시지의 예입니다. 종종 비주장적인 사람의 표현은 이중 구속적이 되기 쉽습니다.
또한 공격적인 사람이 보낸 메시지 중 일부는 전체 표현으로 모순 될 수 있습니다. 예를 들면, 「자유롭게 하십시오」라든가, 「사람에게는 의지하지 말고, 스스로 해 주세요」라고 하는 메세지입니다. 말하는 내용은 "자유를 용서"하고 "자립을 촉진"하는 것 같습니다. 그러나 그 말은 명령적입니다. 즉 「자유」나 「자립」을 명령하고 있는 것이 되기 때문에, 그 사람의 근원에서는, 비록, 자유롭게 하거나, 의지하지 않거나 해도, 그 사람의 명령에 따르게 되어 버린다는 모순이 생기는 것입니다. 이러한 메시지에 대해서는, 명령한 사람의 틀을 넘어 자유롭게 되거나, 자립하거나는 할 수 없게 되어 버립니다.
(같은)
전하고 싶은 것과 전하는 것은 어긋남이 생깁니다.
자신이 전하고 싶은 것을, 상대에게 적절하게 받게 하기 위해, 자신의 측에 있는 전하고 싶은 것을 전하는 방법이나, 전하고 싶은 것을 막는 요인·왜곡해 전해져 버리는 요소를 없애는 것을, 계속 모색해 왔습니다. 지금의 결론은, 전하는 기술이 어떻게 보다, 솔직하게 자신의 생각을 말하는 것이, 가장 적절하지 않을까 생각하고 있습니다.
전하는 대화를 성립시키려면 '상대의 의견을 서로가 듣고 확인하고 받으면서 의견을 나누는 것'이 필수이므로 상대의 진의를 일일이 확인하지 않으면 아무리 성실하게 행동한 '거야'라도 전혀 독선이 되어 버리지만.
의사가 전해졌다고 해도, 그것을 다루는 것은 상대의 문제이므로, 거기는 조작할 수 없습니다. 네, 알아요. 대단합니다. 자신이 할 수 있는 것은 「진지하게 자신의 의사를 전하는 것」, 단지 그것뿐입니다.
*
어설션 교육 책 소개는 이 기사에서 끝납니다.
지금까지의 기사는, 나 자신이 여기에서 인용한 이러한 것을 인지에 써 왔습니다. 다음에 쓰는 기사도, 이것들을 알고 있는 위에 씁니다. 갑자기 책의 소개 기사를 끼웠습니다만, 이쪽의 의사 공개의 일부로서 읽어 주시면 기쁩니다.
******
파인애플의 설탕 절임에 대해 말하는 리자가 여러 번 반복해서 머리를 긁는다. “자신이 자신이 원하고 원하는 행복을 만끽하는 동안 죄도 없는 사람, 전혀 죄가 없는 아이가 전혀 없는 죄에 의해 처벌받는 그 순간에도 그 상황 를 보고 있어도 자신의 행복을 우선해 버리는 에고이스트임을 자조적으로 말한다. 의 사람을 구하는 것도 아니고, 자신의 행복을 우선시킬 것이다 자신, 알고 나서 그렇게 해 버릴 가능성과 그 두려움을 드러내 보이는 것, 그런 굴절한 모습을, 자신의 존경하는 사람 앞에 내보내는 것. 왜냐하면 그것은 그 사람 자신의 모습과 자신과 겹쳐 보이기 때문에 그 굴절의 가감을 모르는 사람에게 그런 것을 말하거나 하지 않는다.
작년의 7월 10일에, 위의 메모를 쓰고 있었습니다. 그런데, 전회에 이어 이번에도, 전해지고 있는지 없는지, 귀찮은 사건으로서 혐오되고 있는지, 특히 신경쓰는 것도 아니라고 읽어 흘려지고 있는지, 어쩐지 생각하는 재료로서 취급해 주고 있어 하는 것인가,,,, 도대체 어떤 생각이라도 듣고 있는지, 정말로 깔끔하게 판단할 수 없는 상황에 빠져 있는 나의 「일방적인 자기 표현」입니다만, 앞으로 조금만 교제를 부탁합니다.
amazon → 어설션 트레이닝 - 상쾌한 "자기 표현"을 위해
2009 년 발행의 개정판도 있습니다.
amazon → 개정판 어설션 트레이닝 - 상쾌한 <자기 표현>을 위해
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2011년 07월 10일
감정은 사건이 일으키는 것이 아니다─── 『어설션 트레이닝』(2)
계속해서, 히라키 노리코씨의 「어설션 트레이닝」으로부터 인용합니다.
어설션에 필요한 사고방식에 대해, 앨버트 엘리스의 논리요법의 설명을 통해 어떠한 감정도 자신이 만들어 내고 있는 것에 대한 이해를 요구합니다.
사람의 언동의 기초가 되는 것의 견해, 사고방식의 문제점을 지적해, 자기 성장과 인간 관계의 본연의 자세에 큰 영향을 주고, 공헌한 사람은, 「논리 요법」의 창창자 A·엘리스라고 한다. 엘리스는 “감정은 사고 방식에 대한 반응이며, 생각은 상황에 대한 반응”이라고 말합니다. 엘리스에 따르면 감정은 어떤 상황이나 사건에 대해 안고 있거나 상황에서 일어나는 반응인 것처럼 보이지만 그렇지 않다고 합니다. 즉, 감정은 사실은 물건 그 자체에 대한 직접적인 감정이 아니라 사람을 어떻게 받아들였는지에 의해 일어난다는 것입니다. 바꿔 말하면, 우리는 물건마다 받아들이는 방법, 물건을 보는 방법에 대한 특정 규칙을 가지고 있으며, 그 규칙에 의해 물건을 받아들인 결과 어떤 감정이 태어난다는 것입니다.
엘리스의 이론은 'ABCD 이론'이라고도 불리며, 영어 어욕을 즐기면서 다음과 같이 설명되어 있습니다.
A (Activating event) = 사물을 일으키는 사건
B (Belief) = 신념, 추억
C (Consequence) = 결과, 문제, 고민, 증상 등
D (Dispute)=논파, 논박
'ABCD 이론'에서 엘리스의 사고방식을 설명하면, 우리는 문제나 고민(C)이 그것을 일으키는 사건(A)에 의해 일어날 수 있다고 생각하기 쉽지만, 실은 A를 어떤 사고방식으로 받아들였는지(B)의 영향으로 C는 일어나고 있다는 것에 즉, 문제나 고민이 일어나는 프로세스는 A→C가 아니라 A→B→C입니다.
예를 들어 보겠습니다. 누군가가 당신을 싫어한다고 말했기 때문에 (A), 당신이 우울한 (C)라고합시다. 일반적으로는, 미움받았기 때문에 우울했다(A→C)라고 생각합니다만, 엘리스는, 미움받았다, 라고 하는 것은 우울한 사건이다, 그래서 우울하다(A→B→C)라고 하는 프로세스가 되어 있다고 하는 것입니다.
그러나 B는 합리적인 추억과 비합리적인 추억을 가지고 있습니다. 그리고 특히 비합리적인 추억은 현실적이지 않으므로 문제와 고민이 쉽게 만들어집니다.
오른쪽의 예로, 미움받은(A), 라고 하는 것은 유감이지만, 그것도 어쩔 수 없는(B), 되면, 그만큼 우울하지 않는(C)이겠지요. 사고방식이 어서티브라면, 모든 것들은 현실적, 생산적으로 받아들여지고, 그 결과, 언동이 어서티브가 되어 가는 것입니다.
만약, 비현실적, 비합리적인 추억을 삽입해 물건을 받아들이고 있으면, 결과(C)는 비현실적, 비합리적인 것이 됩니다. 엘리스는 그렇게 하지 않도록 비합리적인 추억을 합리적인 것으로 바꾸는 것이 좋습니다. 그러나 그 추억은 누군가와의 관계 속에서 체험되거나, 말하고, 배운 것, 자신의 체험 속에서 만들어진 것 등, 오랜 생활의 쌓아서 만들어지고, 반복되고, 사회에 의해서도 강화되고 있기 때문에, 간단하게 바꾸는 것은 어렵습니다. 거기서 그것을 바꾸는 데 도움을 주기 위해서는 그 생각이 어떻게 비현실적, 비생산적인지를 설명하고 논파·논박(D)할 필요가 있다고 합니다. 이성을 구사하여 그러한 생각을 멈추는 노력을 하는 것입니다.
「어설션·트레이닝 ─── 상쾌한 「자기 표현」을 위해서」 히라키 노리코 일본·정신 기술 연구소
감정은, 사건(대외적인 것)에 의해서 생기는 것이 아니라, 사건을 계기로, 자신의 사고방식(신념에 의한 사건의 해석)의 필터를 통과한 것에 의해 생기고 있기 때문에, 사고방식을 바꾸면 일어나는 감정을 바꿀 수도 있다는 생각입니다.
이 이론을 바탕으로 감정을 적절하게 다루고 어설티브하게 표현하는 것이 좋습니다.
감정을 표현하려고 할 때, 마음껏 유지하면 도움이 되는 사실은, 「감정은 틀림없이 자신의 것」이며, 자신의 책임으로 표현할 수 있는 것입니다. 그것은 다음과 같은 예를 들어 보면 알 수 있습니다.
예를 들어 누군가가 큰 소리를 내며 기타를 연주했다고 가정해 보겠습니다. 그것을 듣고, "시끄러운!"라고 불쾌해지는 사람도 있으면, "대단하다!"라고 듣는 사람도 있습니다. 즉, 어떤 것에 대한 감정은, 자신이 일으키고 있는 것이며, 기타를 연주하고 있는 사람이 일으키고 있는 것이 아닙니다. 확실히, 기타의 소리는 자신의 어떤 감정을 일으키는 계기가 되었습니다만, 그에 대해 어떤 감정을 가지는지는 자신이 결정하고 있는 것입니다.
(같은)
분노를 느낄 때 적절하게 취급하는 것이 특히 중요합니다.
앞서 언급했듯이 분노는 외계 사건과 주변 사람의 언동이 계기가 되어 일어납니다. 그 때문에, 주변의 탓에 화나게 되었다고 생각하기 쉽지만, 실은, 자신이 자신을 화나게 하고 있는 것입니다. 분노의 감정은 불쾌하기 때문에, 그것을 자신이 일으키고 있을 리가 없다고 생각하고 싶어질지도 모르고, 분노의 계기를 만든 것나 사람에게 책임을 전가하고 싶어져, 「당신의 이야기를 듣고 있으면 좌절시킬 수 있다」라든가 「나를 화나게 하지 말아라!」라든지 「그런 일을 하기 때문에, 분노
그러나 지금까지 여러 번 설명했듯이 분노는 인간이 가진 자연적인 감정이며, 모두가 가질 수있는 당연한 감정입니다. 만약, 불쾌하기 때문에 치고 싶지 않다고 생각해도, 어쩔 수 없이 점점 할 수 없을 것입니다.
(중략)
우선, 중요한 것은, 자신이 분노를 느끼고 있는 것을 깨닫고 인정하는 것입니다. 그리고 그것은 다름 아닌 자신이 일어나고 있는 것, 따라서 비난해야 할 사람은 아무도 없는 것을 확인하는 것입니다. 앞서 언급했듯이 분노는 다른 사람의 언동이 계기로 일어나고 있을지도 모르지만, 자신이 그것을 좋아하지 않거나 불만을 느낄 때 일어나는 기분입니다. 그러므로 분노를 느낀다면, 자신이 분노의 소유자임을 인정하고 그렇게 스스로 어떻게 할 수 있다고 생각합시다.
(같은)
「사건에 어떻게 반응할 것인가를 결정하고 있는 것은 자신」인 것을 의식하고 있지 않으면, 자신의 기분(분노나 우울)의 책임을 상대에게 전가해, 「자신은 피해자」적인 언동을 해 버리는 것에 연결됩니다.
또, 「사건에 대한 반응은, 자신의 생각이 토대에 있어, 그 해석에 의해 자신의 감정이 생겨, 그 결과 어떻게 반응하는지를 스스로 판단해 결정해, 자신의 의사로 행동하고 있다」, 이 일련의 작업을 자기 분 자신이 주체적으로 하고 있는 것을 자각하고 있지 않으면, 접한 상대로부터 「자신의 행동에 책임을 가지지 않는 (책임을 취할 생각이 없는) 무책임한 인간」이라고 "볼 수 있어"버리는 것도 있는 것은 아닐까요.
*
논리 치료에 관하여. 작년, 앨버트 엘리스의 「신경증자와 맞대기에는―가정・학교・직장에서의 논리요법
돌진이 미세하고 재미있는 서문에서 인용합니다.
코지브스키는 '과학과 정기'라는 그의 유명한 저서 속에서 '아이덴티티(있는 것이 무엇인가)를 나타내는 'is'(이다)'에 불평하고 있다. 우리가 'A는 게으르다'는 때는 'A는 아침 일어나지 않는다'라든지 'A는 아침 일어나는 것을 거부하고 있다'는 기술적 문장과는 전혀 다른 의미가 된다는 것이 그의 주장이다. 'A는 게으르다'라는 문장은 의미가 어떻게 든 취할 수 있다. 즉, 다양한 추상 단계가 고려된다. 예를 들면, 「A는 아침 때때로 일어나지 않는다」라고 하는 의미일지도 모르고, 「A는 아침 드물게 일어나지 않는다」라고 할지도 모른다. 또 "A는 아침은 일찍 일어나지만 샤워를 하는 데 시간이 걸린다"는 것일지도 모른다. 혹은 「A는 아침 일부러 늦게 일어난다」라고 하는 일도 있을 것이고, 「A는 아침 일찍 일어나려고 노력은 하고 있지만, 자신의 의지의 반대로 또 잠들어 버린다」라고 하는 일도 있을 것이다. 「A는 게을리하지 않는다」라는 문장 기술은, A는 어떤 상황에서도 항상 물건을 늦추거나 아무것도 하지 않는 것을 의미하고 있는 것으로 보인다. 하지만, 항상 게을리한다는 것이 있을 수 있을까? 물론 보통은 있을 수 없다. 그러나 우리는 이렇게 어떻게 든 취할 수 있는 문장을 끊임없이 사용하고 있다.
(중략)
기술적으로 나는 맞다. 게다가 코지브스키보다, 때로는 볼랜드보다 좋은 선까지 갔다. 라고 하는 것은 그들은 “우리는 A를 신경증자라고 부를 수 있다”라고 말하고 있지만, 이것은 다소 정확성이 부족한 사용법이기 때문이다. 그들은 "이다"에서 탈각했지만, 그것에는 A에 레텔을 제대로 붙일 수 있다는 포함이 있다. 그러나 레텔은 붙일 수 없다! 코지브스키의 철학의 본질은 모든 것이 변화한다는 생각이기 때문이다. 그러므로 장미는 빨강 「이다」라고는 말할 수 없다. 왜냐하면 그것은 곧 검게 될지도 모르고 다른 색으로 변색할지도 모르기 때문이다. 그것은 장미 "이다"조차 할 수 없을지도 모른다. 왜냐하면 그것은 먼지가 될 수도 있고 다른 요소로 변할 수도 있기 때문이다. 마찬가지로 A도 <신경증자> '이다'라고 말할 수 없다. 왜냐하면 그의 신경증은 변화할지도 모르기 때문이다. 즉 신경증의 증상은 사라질 수도 있다. 또한 호전할지도 모르고, 악화될지도 모른다. 그러나 코지브스키나 볼랜드가 '인' 회피법으로 주장하지 않으려는 분은, 즉 '나는 A를 신경증자로 분류한다'라든지 '나는 A를 신경증자로 본다'는 좋은 분은 적어도 기술적으로는 아직 정확하다고는 할 수 없다. 너무 일반적이고 너무 총괄적이다. 따라서 오히려 이런 것이 좋다. “나는 A를 시간의 흐름 속의 어느 순간, 신경증자인 것으로 식별한다. 라고 하는 것은, 그는 신경증적으로 전혀 행동하지 않을 때도 있지만, 대부분은 신경증인 것을 알고 있다고 하는 것이다. 또 그의 신경증적인 행동이 바뀔 수도 있고, 신경증의 증상이 적어질지도 모른다.” 혹은 장래에
『신경증자와 맞대기에는―가정・학교・직장에서의 논리요법』 앨버트・엘리스
이 서문에서는 「이다」를 회피하기 위한 사고방식에 대해 설명해 줍니다. 여기에서만이 책을 읽을 가치가 있다고 생각했습니다. 레텔에 대한 알기 쉬운 설명도 납득시켜 주었습니다.
그러나 본문은 당연히 대단했다. 통해 읽으면 "매우 도움이되는 한 권"이라고 생각합니다. 이쪽도 꼭 읽어 보세요. "읽어야한다고는 말하지 않지만 읽고 싶다고 생각합니다."
amazon → 어설션 트레이닝 - 상쾌한 "자기 표현"을 위해
2009 년 발행의 개정판도 있습니다.
amazon → 개정판 어설션 트레이닝 - 상쾌한 <자기 표현>을 위해
amazon → 신경증자와 어울리려면 - 가정, 학교, 직장에서의 논리 요법
태그 : 포와이 프로젝트
posted by 키리나 at 15:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 읽고 싶은 책
2011년 07월 09일
3개의 대인 관계의 잡는 방법 ─── 『어설션 트레이닝』(1)
「건전」을 두려워하는 것.
恫喝는 무섭지 않다. 매력도 무섭지 않다. 그들은 상대의 감정이 보이기 때문에.
정말 무서운 것은, 자신에게 보여지는 모습이 거짓인 상황, 반전이 많이 무엇을 믿어도 좋은지 모르는 상황, 아무것도 모르는 상황.
사실이 어떻게 되어 있는지 보이지 않으면 적절한 행동도 보이지 않는다.
신졸로 들어간 회사는, 모두 보통 정도로 「어른」이었으므로, 내심 생각하는 것은 있어도 「제대로」대응해, 큰 충돌이 표립되는 일은 없었습니다. 손 안을 보여도 괜찮은 상대와 마시러 가거나 했을 때 등은 상황이 달랐을지도 모릅니다만, 모두 사교 사령의 행동을 당연히, 어떤 상대에게도 웃는 얼굴을 향하고 있던 것처럼 기억하고 있습니다.
그러나 여자 탈의실은 문 한 장으로 분리했을 뿐인데 이 공간에서 화려한 미소와 배려의 말 뒤에 있는 생각을 들으면서 표면의 언동을 그대로 받지 말아야 한다는 것을 알게 되었습니다.
상대의 말을 참으로 받는 것은 바보이며, 본심은 듣는 상대의 폐가 되는, 개인적인 이야기를 또 듣고도 모르는 척을 통과해야 하는, 「화려한 관계」를 유지하기 위한 암묵의 룰을 배우면서, 나 자신, 본심을 말하지 않게 되었습니다.
그런 내가 구입하고 형광펜으로 많이 선을 그렸던 책이 있습니다. 「표면적으로는 문제가 일어나지 않은 얕은 교제」에의 반항이었을지도 모릅니다.
지금이 되어 읽어 돌려, 간신히 저자의 의도를 이해할 수 있었던 기술도 많이 있어, 「표면은 화려한 얕은 관계」가 아닌 관계를 바라는 사람, 「의사를 전하고 싶은 사람・의사를 전해 주고 싶은 사람」에는 읽어 주었으면 했으므로, 발췌 기사를 게재합니다. 히라키 노리코 씨의 「어설션 트레이닝」. 인간 관계를 잡는 방법, 자신의 의견을 표현하는 방법에 대해.
한 미국의 심리학자는, 인간 관계의 떡방에는, 크게 나누어 3개의 타입이 있다고 말하고 있습니다. “첫째는 자신을 생각하고 다른 사람을 짓밟는 방법, 두 번째는 자신보다 타자를 항상 우선하고 자신을 후회하는 방법, 세 번째는 첫 번째와 두 번째 방법의 황금률이라고도 해야 하며, 자신을 먼저 생각하지만 다른 사람도 배려하는 방법”입니다.
어설션이란, 이 3종류의 대인 관계의 떡방중에서는, 제3의 방법을 말합니다. 그리고 내가 수행하는 '어설션 <자기 표현> 훈련'에서는 첫 번째 방법을 '공격적'또는 '어그레시브', 두 번째 방법을 '비주장적'또는 '논 어서티브', 세 번째 방법을 '어서티브'라고합니다.
a 비주장적 자기표현
<비주장적>이란, 자신의 기분이나 생각, 신념을 표현하지 않거나, 그렇게 되거나 하는 것으로, 자신으로부터 자신의 언론의 자유(인권)를 밟고 있는 것 같은 언동을 말합니다. 여기에는 자신의 감정이나 생각을 말하지 않을 뿐만 아니라, 모호한 말을 하거나, 말을 잘못 말하거나, 타인에게 무시되기 쉬운 소극적인 태도나 작은 목소리로 말하는 것도 포함됩니다. 이런 말은 언뜻 보면 상대를 세우고 있는 것 같거나 상대를 배려하고 있는 것처럼 보입니다만, 어둠에 “내 마음이나 생각, 말하고 있는 것은 걸리기에 충분하지 않습니다. 무시해도 괜찮습니다.” 비주장적인 언동을 하고 있을 때는, 상대에게 양보해 주고 있는 것처럼 보이면서, 자신감이 없고, 불안이 높고, 그것을 숨기고 비굴한 기분이 되어 있는 것이 많습니다.
따라서, 비주장적인 언동을 한 후에는, 「자신은 역시 안 된다」라고 하는 열등감이나, 「어차피 말해도 알 수 없게 정해져 있다」라고 하는 포기의 기분이 붙어 있습니다. 또, 상대에 대해서는, 「양도해 준다」라고 하는 은혜가 좋은 기분이나, 「사람의 기분도 모르고」라고 하는 원한이 좋은 기분이 남습니다. 만약 정말로 상대를 배려해, 존중해 상대에게 동의하거나, 양보하거나 했을 경우는, 자신의 결단으로 그렇게 하고 있기 때문에, 기분은 상쾌하고, 미련은 남지 않을 것입니다. 비주장적인 언동 후에는, 알 수 없었다고 생각하는 마음이나 상처 입은 느낌이 남기 쉽기 때문에, 비참하게 됩니다. 원래 자기 표현하지 않았기 때문에, 상대에게 알리라고 기대하는 것은 욕망입니다만, 드디어 「닥쳐서 당겨 주었는데」라든가, 「상대를 세웠는데 알지 못한다」라고 하는 응석이나, 「배려가 없는 사람이다」라든지, 「둔감한 사람이다」라고 하는 상대도 있다.
이런 식으로 참기와 원한이 쌓이면 욕구 불만과 분노가 쌓여 사람과 교제하는 것이 두드러지거나 두통, 어깨 결림, 신경증의 위통 등의 심신증이나 우울증 상태가 됩니다. 또, 약한 입장의 상대에 대해서는, 부당하게 여덟 명당을 하거나, 의지악을 하거나 하는 것도 될 수 있습니다. 본인 자신은 정중하게 상냥하게 하고 싶어도, 생생한 느낌은 없고, 무표정으로, 懇懃무례한 행동을 하고 있거나 합니다.
한편, 비주장적인 대응을 한 상대도 결과적으로 피해를 입습니다. 우선, 당신이 동의해 주면 자신과 동의견, 양도해 주었을 때는 당신을 배려가 있는 사람이라고 고맙게 생각하는 것이 보통입니다. 당신의 진의는 표현되지 않기 때문에, 당신이 말하는 것에 의심스러운 사람이 아닌 한, 그것은 솔직한 반응입니다. 그런데 그 결과 나중에 원망하거나 경멸되는 것은 쌓이지 않았습니다. 또, 우선적으로만 있으면, 당신에 대해 우월감이나 자비의 기분을 갖거나, 반대로 순종하게 되어 버렸다고 하는 죄악감이나 자극을 느낄지도 모릅니다.
b 공격적 자기 표현
<공격적>이란, 자신의 의견이나 생각, 기분을 분명히 말하는 것으로, 자신의 언론의 자유를 지키고, 자신의 인권을 위해 스스로 일어나서, 자기 주장하고는 있습니다만, 상대의 말이나 기분을 무시, 또는 경시해, 결과적으로, 상대에게 자신을 밀어붙이는 말
따라서, 그것은 상대의 희생 위에 서는 자기 표현·자기 주장이며, 자신의 말은 지나도 상대의 기분을 해치거나 상대를 불필요하게 지배하거나 하게 됩니다.
이런 언동을 하고 있는 사람은, 보기, 표현 풍부하고, 하키하키 물건을 말하고 있는 것처럼 보입니다만, 상대를 배려하지 않고 자신의 것만을 주장하고 있는 것이므로, 결국, 상대를 짓밟고 있는 것이 됩니다. 거기에는, 「자신이 제일」이라든가 「당신은 안 된다」라고 하는, 그 자리의 주도권을 잡고, 상대보다 우위에 서려고 하는 태도나, 「승패」에서도 일을 결정하려고 하는 자세가 보이고 숨어, 자신에게 부정직이라고도 할 수 있습니다.
즉, 공격적이란, 단지 폭력적으로 상대를 비난하거나, 큰소리로 어긋나는 것 뿐만이 아니라, 상대의 기분이나 욕구를 무시하고, 자신 마음대로 언동을 취하거나, 교묘하게 자신의 욕구를 상대에게 밀어붙이고, 상대를 조작해 자신의 마음대로 움직이려고 하는 것을 말합니다. 물론 부당한 비난, 모욕, 아이러니, 팔찌 등도 포함됩니다. 또, 잡담이나 아무렇지도 않은 대화를 하고 있을 때의 「안 밀어」나 「한마디 많은 발언」도 그렇습니다.
이러한 언동을 하고 있는 사람은, 당당하게 하고 있는 것처럼 보이는 곳에는 어딘가 방어적이고, 필요 이상으로 위장하고 있거나, 강해지고 있거나 합니다. 또한 자신의 의향은 지나도 그 강인함 때문에 뒷맛이 나쁜 것이 많아 그것이 자신의 본의가 아니었음을 깨닫고 후회하게 됩니다.
또, 공격적인 대응을 한 상대는, 자신의 뜻에 반해 복종된 기분이 되어, 가볍게 볼 수 있고, 바보가 된 기분은 남아도, 소중히 된 느낌이 되지 않습니다. 그 결과, 상처를 입고, 두려워하고 존경하거나, 동시에 분노를 느끼고 복수심을 가질 수 있습니다.
어쨌든, 서로의 관계는 상호 존중과는 거리가 멀고 기스기스가 되기 쉽습니다.
c 어서티브한 자기 표현
<어서티브>란, 자신도 상대도 소중히 한 자기 표현입니다. 자신의 인권인 언론의 자유를 위해서는 스스로 일어나려고 합니다만, 동시에 상대의 언론의 자유도 존중하려고 하는 태도가 있습니다. 어설티브한 발언에서는 자신의 감정, 생각, 신념 등이 정직하고 솔직하게 그 자리에 어울리는 방식으로 표현됩니다. 그리고 상대방이 같은 말을 하도록 격려하려고 합니다.
그 결과, 서로의 의견이 갈등을 일으킬 수도 있다고 생각합니다. 즉, 서로가 솔직하게 이야기를 하면, 자신의 의견에 상대가 동의하지 않는 경우도 있고, 또, 상대의 의견에 자신이 찬동할 수 있다고는 할 수 없다는 것을 알고 있습니다. 오히려 솔직하게 말하고 의견이나 생각이 일치하면 운이 좋다고 생각합니다. 그러니까 갈등이 일어났을 때는 바로 접혀 상대에게 양보하거나 상대가 자신에게 동의해 줄 것을 기대하는 것이 아니라 귀찮지 않고 서로의 의견을 나누어 양보하거나 양도하거나 하면서 양측에게 납득이 가는 결론을 내려고 하는 것입니다.
(중략)
그런데, 당신의 평소의 언동이 어서티브일지 어떨지를 알기 위해서는, 당신과 일상적으로 관계가 있는 가족, 친구, 직장의 상사나 동료, 선생님, 이웃, 친척 등과, 어떤 교제를 하고 있는지, 기억해, 자신의 기분에 정직하게 듣고, 검토해 그 관계에서 누군가 특히 지배적인 사람이 있습니까? 누군가에 대해, 당신은 비굴하거나 오베카를 사용하지 않습니까? 반대로 당신은 누군가를 이용하거나 가볍게 취급하지 않습니까? 어떤 상황에서도 자신의 감정을 개방적으로 말합니까? 상황에 따라 상대방에 의해 자기 표현이 바뀌지 않습니까?
이 이후에도, 자기 주장하는 것·하지 않는 것과, 그 생각에 대해서 유효한 기술이 많이 있으므로, 계속해 이 책의 발췌 기사를 게재합니다.
amazon → 어설션 트레이닝 - 상쾌한 "자기 표현"을 위해
2009 년 발행의 개정판도 있습니다.
amazon → 개정판 어설션 트레이닝 - 상쾌한 <자기 표현>을 위해
태그 : 포와이 프로젝트
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2008년 12월 20일
열쇠는 자신의 태도 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(5)
"즉, 내가 누군가를 위해서, 그렇게, 예를 들어 아내를 위해 뭔가를 해주려는 마음이 들지 않는 것은, 아내에 대해 상자 안에 있기 때문이라면, 그렇게 말하나요" "아니, 엄밀하게는 그렇지 않다"배드는
그렇게
내 옆의 의자에 앉았다.
「나의 경우에는, 그렇게 되는 것이 많다는 얘기다. 적어도 가까이 있는 사람들에 대해서는 말이지. 그럼, 네가 부인에 대한 때도 같은지, 그것은 모른다. 그것은 너 자신이 생각하는 것이다.」
『상자 ─── GETTING OUT OF THE BOX』
"하지만 모두가 상자에 들어있는, 당신 (케이트)이나 버드처럼 성공한 사람까지도 상자 안에 들어 있다면, 이 미팅은 도대체 무엇에 도움이 될까요"
"그건 이런 일이야. 확실히 우리는 모두 때로는 상자 안에 들어가 버리고 언제라도 어느 정도는 이 안에 발을 쏟고 있다. 하지만 이 회사가 성공한 것은 우리 직원이 상자 밖에 있는 시간을 만들어낼 수 있었으니까. 언제나 완벽하게 상자에서 나올 필요가 있다. 어쨌든 이 회사가 핵심이 되는 사람들의 질을 향상시키기 위한 구체적이고 조직적인 방법에 연마해 온 것입니다.
(동)
내가 이 책을 '유용·좋은 책'이라고 생각하는 이유는 두 가지가 있습니다.
첫 번째는 책에 쓰여 있는 사고방식 「바로 일을 보는 방법(보는 눈을 왜곡시키는 원인)에 대한 지식을 제공해 주는 것」과, 「상황에 반응하는 것이 아니라, 정말로 소중히 해야 할 것 그 목적에 부응하는 행동을 취하는 것이, 자신에게도 주위에도 좋은 결과를 낳는 것을 이해시켜 주는 것」입니다.
두 번째는 여기에 설명 된 지식에 대한 땅이없는 독자 (주인공 톰)에 대한 태도의 적합성입니다. 강의 형식으로 진행되는 이야기 속에서 「지도하는 역할의 인물(≒ 저자)」이 완전무결의 절대자가 아니기 때문에 불필요한 저항이 생기지 않습니다.
알고 있는 사람으로부터 보면, 모르는 사람이 취하고 있는 행동의 문제점은 알기까지, 축일 「지도」할 수도 있습니다. 하지만, 지도받는 측의 인간이 「자신의 나쁜 점을 지적되고 있다」라고 느끼는 상황에서도, 그것을 직언하는 것이 아니라(정답을 알고 있으므로, 직언이나 비판은 얼마든지 할 수 있는 상황이어도), 판단을 주지 않고 「본인이 스스로 답을 찾아내도록 인도한다」를 철저히 하고 있습니다. 「의견」은 단순히 일등장 인물의 생각으로서 말해지므로 밀어 느낌이 없습니다.
'미숙하고 결점이 많은 것처럼 보이는 사람'이라도 자신과 같은 '희망이나 필요와 걱정과 불안을 가지고 있는 인간이다'는 것을 이해하고 존중하며, 제언하는 측의 사람 자신도 '자신이 완벽한 인간이 아님'을 명언하고, 중요한 것은 '완벽하다'는 것이 아니라 '더 나아질 수 있다'는 스탠다.
“상대가 상자에 들어 있는 것을 비난하지 않고 상대의 상자의 존재를 깨달을 수 있다면, 그 쪽이 훨씬 더 좋다고 생각하지 않을까. 그야말로 박스 안에 있는 것이 어떤 것인지 머리라도 이해할 수 있다.
(동)
사람이 모여 뭔가를 하는 장소에서 '자신이 사물에 접하는 태도'가 미치는 영향을 아는 것은 중요한 일입니다.
사물을 왜곡하지 않고 그대로 보고, 자신 속에 생긴 '적절한 행동'에 대한 감정을 존중하고, '정말로 원하는 상황'을 만들어 내기 위해 어떻게 하는 것이 최선인지를 생각하고 실행하는 것을 선택하는 것.
사람과 사람이 서로 협력하는 관계를 만들기 위해서는 '그 자리에 있는 각 사람의 자각'이 빼놓을 수 없습니다. 그 「한사람 한사람의 자각의 정도(=태도)」의 평균치와, 그 자리의 활성도・협조성・목적 달성 추진력은 비례합니다.
■발전의 1권
amazon → 2일 만에 인생이 바뀌는 「상자」의 법칙
일반적으로 싸우고 있는 사람들은 싸움이 없어지기를 바란다. 아이가 싸움을 하고 있다면, 부모는 어리석음을 그만두고 싶다. 횡포한 상사 아래에서 일하고 있는 사람은 상사가 태도를 다시 만들어 주기를 바라며, 약한 나라의 국민은 열강하지 않으려고 하고 싶지 않다고 바란다. 이처럼 사람들은 문제 해결을 원한다.
그러나 각 위치에 따라 바람직한 해결 방법은 다릅니다. 싸움이 길어지고 문제가 해결되지 않는 것도 신기하지 않다.
하지만 어쩌면 우리에게는 그러한 문제의 '해결' 이상으로 원하는 것이 있는 것은 아닐까? 가정내의 대립, 직장에서의 대립, 세계의 대립은 같은 하나의 원인으로부터 일어나고 있는 것이 아닌가? 그리고 우리는 그 원인을 오해하고 문제를 모르고 모르게 길게 끌고 있다면? 이러한 '원인'을 밝히는 것이야말로 본서에서 음미되는 중요한 질문이다.
『이틀 만에 인생이 바뀌는 「상자」의 법칙』 어빈저·인스티튜트 쇼덴샤
타이틀이나 장갑 등 어쩔 수 없이 내용과 일치하지 않기 때문에, 필요로 하는 사람으로부터 손에 잡힐 가능성이 매우 낮다고 생각되는 책.
「상자 ─── GETTING OUT OF THE BOX」의 저자에 의한, 자기 기만이 바탕이 되는 대립에 대해, 시야를 확대 발전시키는 내용.
친밀한 사람과의 대립을 회피하는 방법, 라고 하는 전작의 이야기란, 전혀 다른 성분이 아마 포함되어 있습니다만, 그 부분에 반응할 수 있을지 어떨지는 그 사람 나름. 이 테마에 특히 관심이 없는 사람이라도, 「상자 ─── GETTING OUT OF THE BOX 」로부터 흡수할 수 있는 것이 있었던 사람이라면, 그것과 관련·발전한 생각과 태도를 배울 수 있다고 생각합니다.
다만, 먼저 출판된 「상자─GETTING OUT OF THE BOX」와 달리, 스스로 「독해」하지 않으면 이해할 수 없는 문장이 많다고 느낍니다. 「자기 기만」의 이야기도 나오지만, 전작을 읽지 않은 사람이 갑자기 이 책을 읽어도 요지를 잡지 않을 가능성이 있는 것 같다.
그러나, 「상자」를 읽고 나날의 생활에 도움을 하려고 했던 사람이라면 반드시 떠올릴 의문에의 대처를 알고 싶은 사람에게 유효하다고 생각한다(나에게는 도움이 되었다) 때문에, 「상자」를 읽어도 좋다고 생각해, 「하지만 이런 때는 어떻게 하는 거야!」라고 절실한 의문을 가진 사람에게는 추천입니다.
【소중한 보충】※처의 기사의 내용과 같습니다. 이 책의 소개를 처음 읽는 분만 읽으십시오.
분춘 네스코에서 2001년에 출판된 이 책은 지금 절판되어 있습니다. 그리고 2006년, 카나모리 시게키씨의 감수에 의해, 야마토 서방으로부터 복간했습니다. 아마존등의 본소개에서는 「같은 내용」이 되고 있습니다만, 마루키리 같은 내용이 아닙니다.
복간본은, 많은 사람에게 읽기 쉽고, 내용을 잡기 쉽도록(듯이) 궁리를 담은 「원본 해설 일체형」의 만들어가 되어 있습니다. 견 비교·읽어 비교를 하지 않으면 모르는 것 같은 차이이므로, 절판 책을 기독 쪽이 개판 책을 읽어도, 변경점을 깨닫지 않을 가능성도 있습니다.
개행을 다용하는 것으로 소중한 어구에 의식을 향하게 하는, 작은 표제로 장의 요점을 설명을 하는 등의 궁리에 의한 「내용을 받기 쉽게 하는 효과」는, 틀림없이 있다고 생각합니다. 다만, 그것에 의해 잃어버린 것도 있습니다.
그래서 "책을 읽는 것은 괴롭지 않다. 읽기 능력에 불안도 없다. 모처럼이면 좋은 것을 읽는 것이 좋다"는 분은 절판이 된 분춘 네스코의 "상자"를 추천합니다. 고서에서 구입하거나 도서관을 찾아보십시오.
하지만 제가 이 책을 읽고 싶은 소개 기사를 쓰자고 생각한 이유는 “책이 독자들에게 전하고자 하는 내용을 읽은 사람이 이해하고 일상 생활에 긍정적으로 작용하는 양식이 되면 좋다”고 생각했기 때문이었습니다.
개판의 제작자들도, 「이해받지 못한 채 읽어 흘려 버리는 것보다, 손에 잡힐 기회가 없는 채 절판이 되어 버리는 것보다, 잃는 부분이 있어도 많은 사람에게 침투하는 책으로 하는 것을 목표로 하자」라고, 궁리를 집중된 것이라고 생각합니다.
그래서 "빨리 읽고 싶다" "우선은 내용을 알고 싶다" "이해할 수없는 것보다 지원 포함으로 자세히 가르치는 편이 안심"라는 분에게는 입수가 쉬운 야마토 서방의 "자신의 작은 "상자"에서 탈출하는 방법"을 추천합니다.
모처럼이므로 제대로 읽어 보려는 분에게는, 분춘 네스코의 「상자」를 읽은 후, 문고 본 부록의 해설을 읽는 기분으로 「자신의 작은 「상자」로부터 탈출하는 방법」을 읽는 것을 추천합니다. 「픽업 흘림」을 줄일 수 있고, 원작을 읽고 나서 영화를 보는 것 같은 느낌으로 재미있을까라고 생각합니다.
■【원본】추천은 이쪽 도서관이나 고서에서 부디
amazon → 상자―Getting Out Of The Box
■【복간·개판】신간이 입수가 가능 + 내용 이해의 안내 보충 첨부
amazon → 자신의 작은 "상자"에서 탈출하는 방법
■ 모처럼이라면,이 책의 소개의 다른 기사도 함께 부디. 모두 5개의 기사가 있습니다.
모든 행동은 올바른 전제 위에 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』
(
1)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111158895.html 원래라고 하면 녀석이 나쁘다 ───
『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(3)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111227937.html
OF THE BOX 』(4)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111381400.html 열쇠 는
자신의 태도 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(5)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/1114754
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2008년 12월 18일
행동을 바꾸어도 낭비 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(4)
"이제 너를 몰랐어. 그게 전부는 아니야. 너는 내가 뭔가, 내가 신경 쓰지 않는다. 그런 느낌이야. 에 당신에게 애정을 느낀 것이 언제였는지, 더 이상 기억할 수 없을 정도. 는 아무것도 강한 감정을 가지지 않는 거야. 각자의 생활을 끊임없이 계속하고 있을 뿐이야.
『상자 ─── GETTING OUT OF THE BOX』 디 어빙거 인스티튜트
이것이, 자신의 반려의, 혹은, 자신 자신 안에 있는 목소리라면.
또는, 친부모의, 아이의, 낯선 가슴의 안쪽에 있는 목소리라면.
"즉, 인간은 상대가 자신을 어떻게 생각하는지 느낄 수 있는, 이것이 포인트야. 약간의 시간만 있으면, 제목으로 간주되는지, 조종되고 있는지, 책략을 둘러싼 것인지 알 수 있다. 하고 가끔씩, 그런 상대의 태도를 원망스럽게 생각한다. 가족에 대해 물어보거나 일의 효율을 더 잘 하려고 그 손을 사용해 보아도 사람은 상대가 자신을 어떻게 보고 있는지를 느끼고 거기에 반응한다.
(동)
사람과의 관계가 "생각하게 되지 않는다" 때, 어떻게 하는가?
상황을 슬퍼하고 발산하는 것이 유효한 경우도 있을 것이며, 그 상대와 관계를 끊는 것도 방법의 하나일지도 모릅니다.
다만, 안에는 「어쩐지 해야 하는 관계」도 있다고 생각합니다. 그러면 어떻게 하면 좋을까 하는 것으로, 「문제의 상대」에 대해서 어프로치를 시도할 때에, 이 책의 생각은 도움이 됩니다.
만약 자신이 「자기 기만에 빠져 있다」=「상자에 들어가 있다」 상태라면, 상대를 바꾸려고 하거나, 서로 싸우거나, 그 상황으로부터 멀어지거나, 나아가서는 커뮤니케이션을 취하려고 하는 것조차, 상대와의 관계를 악화시키는 원인이 됩니다.
그것을 해결하기 위해 사용할 수 있는 것은 없을까, 「새로운 지식이나 테크닉을 얻으려고 한다」라고 하는 행동도 취하기 쉽습니다만(그리고 이런 상황의 때에는 「상대를 자신의 뜻대로 조종하는 방법」계의 타이틀의 책을 찾아내려고 생각하지 않고 손에 있어서 버리기 쉽습니다만), 자신을 조종하자, 트트롤 해 가자는 생각을 가진 "요코시마 상대"와 접하면 대부분의 사람은 방위 반응이 일하기 때문에 결과 "왠지 모르지만 불안정한 느낌 · 싫은 느낌"을 부여하게되어 버리므로 붙여 칼날의 지식을 사용하는 경우는 특히 주의가 필요합니다 (← 자신 전용).
라고 하는 것으로, 상자에 들어가 있을 때는, 어떤 행동도 도움이 되지 않습니다. 역효과입니다. 표면적으로 행동을 바꾸어 봐도, 상대는 「마음의 안쪽에 안고 있는 것」을 간과해 버리기 때문에, 「자신을 바꾸는 것」조차 안 됩니다.
그렇다면,상대방과 접할 때 "상자에서 나오는 것", 그냥 필요합니다.
「그럼 어떻게 상자에서 나오는 거야?」 「원래 상자에 들어간다는 것은 무슨 일인가?」라는 의문을 가진 분, 부디 책을 읽어 보세요.
이 책의 소개는 다음 번(5회째)에서 마무리합니다. 책의 소개만으로, 실제의 방법에 접하고 있지 않다고 느끼고 있는 분도 계신다고 생각합니다만, 「지식으로서 결론만, 요점 발췌만을 읽었다고 해도, 의미가 정말로 「힘으로 떨어지는」상태가 될 수 없습니다 그래서, 흥미를 가진 분은 꼭 「책 그 자체」를 손에 들고 처음부터 끝까지 읽고, 자신 중에 「자신 나름의 결론」을 성립시켜 떨어뜨려, 실생활의 양식으로 해 주었으면 한다, 진심으로 바라고 있습니다.
【소중한 보충】※처의 기사의 내용과 같습니다. 이 책의 소개를 처음 읽는 분만 읽으십시오.
분춘 네스코에서 2001년에 출판된 이 책은 지금 절판되어 있습니다. 그리고 2006년, 카나모리 시게키씨의 감수에 의해, 야마토 서방으로부터 복간했습니다. 아마존등의 본소개에서는 「같은 내용」이 되고 있습니다만, 마루키리 같은 내용이 아닙니다.
복간본은, 많은 사람에게 읽기 쉽고, 내용을 잡기 쉽도록(듯이) 궁리를 담은 「원본 해설 일체형」의 만들어가 되어 있습니다. 견 비교·읽어 비교를 하지 않으면 모르는 것 같은 차이이므로, 절판 책을 기독 쪽이 개판 책을 읽어도, 변경점을 깨닫지 않을 가능성도 있습니다.
개행을 다용하는 것으로 소중한 어구에 의식을 향하게 하는, 작은 표제로 장의 요점을 설명을 하는 등의 궁리에 의한 「내용을 받기 쉽게 하는 효과」는, 틀림없이 있다고 생각합니다. 다만, 그것에 의해 잃어버린 것도 있습니다.
그래서 "책을 읽는 것은 괴롭지 않다. 읽기 능력에 불안도 없다. 모처럼이면 좋은 것을 읽는 것이 좋다"는 분은 절판이 된 분춘 네스코의 "상자"를 추천합니다. 고서에서 구입하거나 도서관을 찾아보십시오.
하지만 제가 이 책을 읽고 싶은 소개 기사를 쓰자고 생각한 이유는 “책이 독자들에게 전하고자 하는 내용을 읽은 사람이 이해하고 일상 생활에 긍정적으로 작용하는 양식이 되면 좋다”고 생각했기 때문이었습니다.
개판의 제작자들도, 「이해받지 못한 채 읽어 흘려 버리는 것보다, 손에 잡힐 기회가 없는 채 절판이 되어 버리는 것보다, 잃는 부분이 있어도 많은 사람에게 침투하는 책으로 하는 것을 목표로 하자」라고, 궁리를 집중된 것이라고 생각합니다.
그래서 "빨리 읽고 싶다" "우선은 내용을 알고 싶다" "이해할 수없는 것보다 지원 포함으로 자세히 가르치는 편이 안심"라는 분에게는 입수가 쉬운 야마토 서방의 "자신의 작은 "상자"에서 탈출하는 방법"을 추천합니다.
모처럼이므로 제대로 읽어 보려는 분에게는, 분춘 네스코의 「상자」를 읽은 후, 문고 본 부록의 해설을 읽는 기분으로 「자신의 작은 「상자」로부터 탈출하는 방법」을 읽는 것을 추천합니다. 「픽업 흘림」을 줄일 수 있고, 원작을 읽고 나서 영화를 보는 것 같은 느낌으로 재미있을까라고 생각합니다.
■【원본】추천은 이쪽 도서관이나 고서에서 부디
amazon → 상자―Getting Out Of The Box
■【복간·개판】신간이 입수가 가능 + 내용 이해의 안내 보충 첨부
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■ 모처럼이라면,이 책의 소개의 다른 기사도 함께 부디. 모두 5개의 기사가 있습니다.
모든 행동은 올바른 전제 위에 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』
(
1)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111158895.html 원래라고 하면 녀석이 나쁘다 ───
『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(3)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111227937.html
OF THE BOX '(4)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111381400.html (이 기사입니다)
열쇠는 자신의 태도 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』(5)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/11
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2008년 12월 14일
원래는 말하면 아이츠가 나쁘다 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(3)
「그럼, 내가 아들에 대해 상자 안에 있다고 합시다. 그렇다면, 저는 아들을 어떻게 보는지. 밤늦게 돌아오는 것을 어떻게 생각할까요」「그렇네요
. "그것에 예의 모르겠다"고 배드가 덧붙였다. (중략) 케이트는 화이트보드에 우리가 한 것을 정리했다. "즉, 이렇게 되는 거야. 그런데, 내가 상자 안에 들어가 있어, 아들이 무책임하고 예의 모르고 힘든 사람이라고 느꼈다고 하면, 이 경우 어떤 행동에 나올까" " 그렇네요" 나는 생각했다. "엄격히 응시하려고 할 것이다"버드가 말했다. "게다가 매우 비판적이지요"라고 내가 말했다. "그래, 그럼?" 케이트는 우리가 한 일을 그림에 덧붙였다. "아마 아들을 감시하고 어려운 일을 일으키려고 하겠지요" 내가 말했다. 케이트는 그들을 그림에 추가했을 때 옆에 머물렀다. "그럼, 아들이 자신의 감정을 뒤엎고, 나를 상대로 상자에 들어갔다고 하자. 상자 안의 아들은 내 망설임이나 비판과 감시를 어떻게 보는지." " 아마 독재적이라고 생각하겠지. 「네, 『독재적』, 『상냥함이 부족하다』, 『입 시끄러운』」 케이트는 그렇게 좋으면서, 한층 더 그림에 덧붙여 갔다. 「그럼, 그럼 어떻게 된지 보자. 아들이 상자 안에 들어가 버리고, 나를 부드러움이 부족한 입 시끄러운 독재자라고 생각한다면, 아들은 집에 빨리 돌아오고 싶을까, 아니면 늦게 돌아오고 싶어?」"그럼 늦겠지. 응 늦게" 그렇게 내가 대답하자, 배드가 계속했다. "아들 씨는, 당신이 하고 싶은 것을, 점점 하고 싶지 않게 될 것입니다. " "그것이 반복되는 것이지" 그렇게 좋으면서, 두 사람 사이에 한층 더 (케이트의 측으로부터 브라이언의 쪽으로 향하는) 화살표를 덧붙였다. 「즉, 서로, 실은 상대에게 하고 싶지 않다고 생각하고 있는 것을 시키려고 하는 것」「그렇구나」배드가 입을 사이에 두었다. 「톰, 이 시점에서 너가 케이트에게, 지금 제일 바라는 것은 무엇인가라고 물으면, 케이트는 어떻게 대답한다고 생각한다.」"그대로. 그러나 상자 안에 있는 케이트는 아들에게 어떤 영향을 미치고 있을까. 일을 자신이 원하는 방향으로 추진하고 있을까" 나는 그림을 보았다. "아니, 스스로 원하지 않는 일을 일으키는 것 같은 생각이 듭니다." " 그렇구나. 케이트는, 아들이 자신이 싫어하는 일을 하도록, 찔리고 있다" 나는 잠시 생각해 갔다. "그래도 그렇게 무차하다. 왜 그런 일을 하는 거죠. 왜 그런 일을 계속 하시겠습니까 ? " 생각을 정리하는 것 같다. "그건 내가 내가 뭘하고 있는지 알지 못했다는 뜻이 아니야. 나는 상자 안에 있다. 즉, 내 자신을 배신하고있다. 자신이 요구 하고 있는 것조차 모르겠네요 . 시, 그런 일을 모두 해 보았다. 하지만 문제는, 행동 그 자체가 아니고 그 법이었다. 엉망이 되고 있다고 생각하고, 간질이 되어 들고 있던 거야. 『상자 ─── GETTING OUT OF THE BOX』 디 어빙거 인스티튜트
주인공 톰에게 상자의 설명을 하기 위해, 최초로 설명을 해 주고 있던 배드에 가세해, 케이트라고 하는 인물이 등장합니다. 톰과 버드, 그리고 케이트의 3명이 대화를 하면서, 화이트보드에 쓰여진 그림을 보여주면서, 책 안에서 「상자의 미팅」은 전개해 갑니다.
자신이 상자에 들어가(자기 사기로 자기 정당화를 함)함으로써, 접하는 상대도 상자에 넣어 버린다.
「상대에게 그런 식이기 때문에, 자신도 그것에 어울리는 행동을 취할 때까지이다」라고 하는 마음속과, 그 마음속에 대응한 언동이, 한층 더 상대에게 좋지 않은 행동을 일으키는 구실이 된다고 한다 우, 「서로, 상대가, 자신이 하고 싶지 않은 일을 하도록 한다」, 이 콘트의 싸움과 같은 행동의 연쇄 반응을, 이 책에서는 「공모 관계」라고 부르고 있습니다.
견적의 케이트 이야기는 여전히 앞서 있습니다. 이 교환을 자신의 일상의 어딘가와 거듭 본 분, 그 공모 관계에서 벗어나는 방법을 알고 싶은 분, 꼭 책을 읽어 보세요.
잘 되지 않는 관계를 어떻게든 하고 싶을 때에, 「해도 효과가 없는 방법」에 대해, 다음에.
【소중한 보충】※처의 기사의 내용과 같습니다. 이 책의 소개를 처음 읽는 분만 읽으십시오.
분춘 네스코에서 2001년에 출판된 이 책은 지금 절판되어 있습니다. 그리고 2006년, 카나모리 시게키씨의 감수에 의해, 야마토 서방으로부터 복간했습니다. 아마존등의 본소개에서는 「같은 내용」이 되고 있습니다만, 마루키리 같은 내용이 아닙니다.
복간본은, 많은 사람에게 읽기 쉽고, 내용을 잡기 쉽도록(듯이) 궁리를 담은 「원본 해설 일체형」의 만들어가 되어 있습니다. 견 비교·읽어 비교를 하지 않으면 모르는 것 같은 차이이므로, 절판 책을 기독 쪽이 개판 책을 읽어도, 변경점을 깨닫지 않을 가능성도 있습니다.
개행을 다용하는 것으로 소중한 어구에 의식을 향하게 하는, 작은 표제로 장의 요점을 설명을 하는 등의 궁리에 의한 「내용을 받기 쉽게 하는 효과」는, 틀림없이 있다고 생각합니다. 다만, 그것에 의해 잃어버린 것도 있습니다.
그래서 "책을 읽는 것은 괴롭지 않다. 읽기 능력에 불안도 없다. 모처럼이면 좋은 것을 읽는 것이 좋다"는 분은 절판이 된 분춘 네스코의 "상자"를 추천합니다. 고서에서 구입하거나 도서관을 찾아보십시오.
하지만 제가 이 책을 읽고 싶은 소개 기사를 쓰자고 생각한 이유는 “책이 독자들에게 전하고자 하는 내용을 읽은 사람이 이해하고 일상 생활에 긍정적으로 작용하는 양식이 되면 좋다”고 생각했기 때문이었습니다.
개판의 제작자들도, 「이해받지 못한 채 읽어 흘려 버리는 것보다, 손에 잡힐 기회가 없는 채 절판이 되어 버리는 것보다, 잃는 부분이 있어도 많은 사람에게 침투하는 책으로 하는 것을 목표로 하자」라고, 궁리를 집중된 것이라고 생각합니다.
그래서 "빨리 읽고 싶다" "우선은 내용을 알고 싶다" "이해할 수없는 것보다 지원 포함으로 자세히 가르치는 편이 안심"라는 분에게는 입수가 쉬운 야마토 서방의 "자신의 작은 "상자"에서 탈출하는 방법"을 추천합니다.
모처럼이므로 제대로 읽어 보려는 분에게는, 분춘 네스코의 「상자」를 읽은 후, 문고 본 부록의 해설을 읽는 기분으로 「자신의 작은 「상자」로부터 탈출하는 방법」을 읽는 것을 추천합니다. 「픽업 흘림」을 줄일 수 있고, 원작을 읽고 나서 영화를 보는 것 같은 느낌으로 재미있을까라고 생각합니다.
■【원본】추천은 이쪽 도서관이나 고서에서 부디
amazon → 상자―Getting Out Of The Box
■【복간·개판】신간이 입수가 가능 + 내용 이해의 안내 보충 첨부
amazon → 자신의 작은 "상자"에서 탈출하는 방법
■ 모처럼이라면,이 책의 소개의 다른 기사도 함께 부디. 모두 5개의 기사가 있습니다.
모든 행동은 올바른 전제 위에 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』
(
1)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111158895.html
원래라고 하면 아이츠가 나쁘다 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(3) http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111227937.html
( 이
GETTING OUT OF THE BOX (4)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111381400.html
열쇠는 자신의 태도
───
태그 : 푸에 이에 프로젝트 "아이"와 마주한다
20:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 읽고 싶은 책
2008년 12월 13일
상대가 문제를 일으킬 필요성─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(2)
즉, 놀라운 일이지만, 이쪽이 상자 안에 있으면 상대가 문제를 일으킬 필요성이 나온다. 즉, 문제가 필요해진다.
『상자 ─── GETTING OUT OF THE BOX』 디 어빙거 인스티튜트
이 책에서는 자기 기만을 "상자"라고 부릅니다.
이 「상자」에 대해서, 주인공의 톰 꾸란 ─── 자그램사의 상급 관리직 시험에 합격해 입사해 한 달, “언제나 가장 빨리 출사해, 가장 늦게까지 잔업하고 있었다. 일에는 충분히 집중되어 있었고, 목표는 제대로 달성하고 있다 아내에게는 자주 불평하지만, 향후 승진의 기회가 있을 때 라이벌이 될 것 같은 동료보다 좋은 일을 하고, 그 밖에 빼내려고 노력해 왔다. ─── 가 어느 날, 전무겸 부사장의 배드로부터 「일대일의 집중 미팅」을 받는다는 상황에서 이야기가 전개되어 갑니다.
독자인 우리는 주인공 톰의 시선으로 이야기를 듣게 됩니다. 그래서 저자의 설명에 대해 궁금한 것은 거의 모두 톰의 입에서 나옵니다. 그리고 그 질문에 대한 응답이 이루어집니다.
그래서 이 이야기를 읽으면 '상자에 대한 미팅'을 의사 체험할 수 있습니다.
“그러나 상자 안에 들어 있는 사람은 상대를 상자 안에 넣으려고 할까요? 예를 들어, 정보를 숨기는 것이므로, 다른 사람으로 하면, 똑같이 정보를 숨겨도 된다고 하는 것이 된다. 분의 다리를 당긴다고는 다른 사람들을 비난하는 것이니까, 상대는 더 다리를 끌어도 괜찮다고 하는 걱정이 되어 버린다, 라고 하는 상태에 있어
. 해결하는데, 라고 생각하고 있는 것.그렇지만 그것은 거짓말. 비록 잭이나 린다나 그 부문이나 회사에 문제가 있었다고 해도
. 버리면 그 동료들도 성과를 올리는 데 집중할 수 없게 되는 것. 하고, 부서 사이에 대립이 태어난다. 조직을 성공으로 이끌기 위해 힘을 빌려고 모은 사람들이, 결국은, 서로 결점을 찾아내는 것은 기뻐하고, 서로의 성공을 이루게 된다”
"그래도 그렇게 마치 광기의 사태가 아닌가요?"
(동)
그래, 광기의 사태입니다. 그리고, 일상 좋게 있는 광경입니다.
이 「연결」 ─── 이 책에서는 공모 관계라고 말하고 있습니다 ─── 에 대해서는 다음번 기사에서.
"그것을 어떻게 하는가?"라는 것에 관심이 있으신 분, 책을 읽어보세요.
***
【소중한 보충】 ※여기로부터 후에는 앞의 기사의 내용과 같습니다. 이 책의 소개를 처음 읽는 분만 읽으십시오.
분춘 네스코에서 2001년에 출판된 이 책은 지금 절판되어 있습니다. 그리고 2006년, 카나모리 시게키씨의 감수에 의해, 야마토 서방으로부터 복간했습니다. 아마존등의 본소개에서는 「같은 내용」이 되고 있습니다만, 마루키리 같은 것은 아닙니다.
복간본은 “가나모리씨가, 많은 사람에게 읽기 쉽고, 내용을 잡기 쉽도록 궁리를 쏟아져 있어 굳이 말한다면 “원본 해설서 일체형”. 견 비교·읽어 비교를 하지 않으면 모르는 형태로의 보충이므로, 처음 읽는 사람에게는, 그것이 「해설서 일체형」이 되어 있는 책이라고 모른다고 생각합니다. 절판 책을 읽고 있고 개판 책을 읽어도 차이를 알아차리지 않을 가능성도 있습니다.
개행을 다용하는 것으로 소중한 어구에 의식을 향하게 하는, 작은 표제로 장의 요점을 설명을 하는 등의 궁리에 의한 「내용을 받기 쉽게 하는 효과」는, 틀림없이 있다고 생각합니다. 다만, 그것에 의해 잃어버린 것도 있습니다.
내가 이 책을 읽고 싶은 소개 기사를 쓰자고 생각한 것은 "책이 독자에게 전하고 싶은 것을 읽은 사람이 이해하고 일상 생활에 긍정적으로 작용하는 양식이 되었으면 좋겠다"고 생각하고 있기 때문입니다.
개판의 제작자들도, 「모르는 채 읽고 끝나 버리는 것보다, 잃는 부분이 있어도 많은 사람에게 침투하는 것을 목표로 하자」라고, 궁리를 집중된 것이라고 생각합니다.
그러니까, 「활자 익숙해 책을 읽는 것은 괴롭지 않다.독서력에 불안도 없다. 모처럼이면 좋은 것을 읽는 편이 좋다」라고 하는 분에게는, 절판이 된 분춘 네스코의 「상자」를 추천합니다. 고서에서의 구입, 혹은 도서관에서 찾아 보세요. .
「빨리 내용을 알고 싶은, 여러가지 자세히 가르쳐 준다면 말할 것 없이」라고 하는 분은, 야마토 서방의 「자신의 작은 「상자」로부터 탈출하는 방법」이 입수하기 쉽다고 생각합니다.
모처럼이라 제대로 읽어 보자는 분문 네스코의 「상자」를 읽은 후, 문고본 부록의 해설을 읽도록(듯이) 「자신의 작은 「상자」로부터 탈출하는 방법」을 읽는다는 것이, 원작을 읽고 나서 영화를 보는 것 같은 느낌으로, 재미있을까 생각합니다.
■【원본】추천은 이쪽 도서관등에서 부디
amazon → 상자―Getting Out
Of The Box ■【해설 동봉의 개판】신간이 입수가 가능+ 원본에 직접 해석 기입이 끝난 판
amazon → 자신의 작은 「상자」로부터 탈출하는 방법 모처럼
이라면, 이 책의 소개의 다른 기사도 아울러 부디. 모두 5개의 기사가 있습니다.
모든 행동은 올바른 전제 위에 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX 』
(
1)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111158895.html (이 기사입니다)
원래는 말하면 녀석이 나쁘다 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(3 )
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111227937
GETTING OUT OF THE BOX (4)
http://kinaritapisserie.seesaa.net/article/111381400.html
열쇠는 자신의 태도
───
태그 : 포와이 프로젝트
posted by 키리나 at 17:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 읽고 싶은 책
2008년 12월 11일
모든 행동은 올바른 전제 위에 ─── 『상자 ─ GETTING OUT OF THE BOX』(1)
"예를 들면, 너 자신의 일에서의 경험을 되돌아보고, 정말로 힘들었던 인물을 떠올려 보길 바란다. 공동 작업을 하는 데서, 어쩔 수 없이 방해했던 인물이라고 해도 좋다"
간단한 일이다. 전 회사의 COO(최고 업무 집행 책임자) 척 스타리 그 사람이다. 전혀 그 녀석은 끔찍한 녀석이었다. 자신에 대해서만 생각하기 때문에.
「아아, 확실히 그런 사람이 있었습니다」
「자, 거기서 질문이다. 그 인물은, 너가 그를 문제라고 생각하고 있는 것만큼, 자신에게 문제가 있다고 생각했을까」 「아니, 절대로 그런
일은 없습니다
」「문제가 있는 인물은, 자신에게 문제가 있다고 해도 듣는 귀를 가지지 않는다. 그것이야말로 자기 기만이다. 자신에게 문제가 있다는 것이 보이지 않게 되어 있다. 조직이 안고 있는 여러가지 문제 중에서도, 이것은 가장 흔하고, 가장 데미지가 큰 문제인── 」 어빙어 인스티튜트 분춘 네스코
[포와이에 프로젝트] , 책의 소개 제일탄은, 지 어빙거 인스티튜트의 「상자」입니다. 이 한 권에 대해 여러 번 나누어 기사로 만듭니다.
「자신이 어떤 식으로 물건을 보고 생각하고 접하는 상대를 어떻게 보고 행동할 것인가.
」 “자신의 눈은 바르게 물건을 보고 있는지, 정말로 보이고 있는지”를 확인하기 위한 책.
일이나 직장에 한정하지 않고, 가족·친구·지역의 분 등, 자신이 접하는 모든 사람과의 관계에 응용할 수 있으므로, 대인 스트레스가 확실히 줄어듭니다. 또, 대인으로 제약되고 있던 행동 자유도가 비약적으로 오르는 것도 받아들입니다.
항상 적절하게 행동하는 것을 유의하고, 실천하고 있는 사람이야말로, 읽어 얻는 것이 크고 즉효성도 높은 1권.
【소중한 보충】
분춘 네스코로부터 2001년에 출판된 이 책은, 지금 절판이 되고 있습니다. 그리고 2006년, 카나모리 시게키씨의 감수에 의해, 야마토 서방으로부터 복간했습니다. 아마존등의 본소개에서는 「같은 내용」이 되고 있습니다만, 마루키리 같은 내용이 아닙니다.
복간본은, 많은 사람에게 읽기 쉽고, 내용을 잡기 쉽도록(듯이) 궁리를 담은 「원본 해설 일체형」의 만들어가 되어 있습니다. 견 비교·읽어 비교를 하지 않으면 모르는 것 같은 차이이므로, 절판 책을 기독 쪽이 개판 책을 읽어도, 변경점을 깨닫지 않을 가능성도 있습니다.
개행을 다용하는 것으로 소중한 어구에 의식을 향하게 하는, 작은 표제로 장의 요점을 설명을 하는 등의 궁리에 의한 「내용을 받기 쉽게 하는 효과」는, 틀림없이 있다고 생각합니다. 다만, 그것에 의해 잃어버린 것도 있습니다.
그래서 "책을 읽는 것은 괴롭지 않다. 읽기 능력에 불안도 없다. 모처럼이면 좋은 것을 읽는 것이 좋다"는 분은 절판이 된 분춘 네스코의 "상자"를 추천합니다. 고서에서 구입하거나 도서관을 찾아보십시오.
하지만 제가 이 책을 읽고 싶은 소개 기사를 쓰자고 생각한 이유는 “책이 독자들에게 전하고자 하는 내용을 읽은 사람이 이해하고 일상 생활에 긍정적으로 작용하는 양식이 되면 좋다”고 생각했기 때문이었습니다.
개판의 제작자들도, 「이해받지 못한 채 읽어 흘려 버리는 것보다, 손에 잡힐 기회가 없는 채 절판이 되어 버리는 것보다, 잃는 부분이 있어도 많은 사람에게 침투하는 책으로 하는 것을 목표로 하자」라고, 궁리를 집중된 것이라고 생각합니다.
그래서 "빨리 읽고 싶다" "우선은 내용을 알고 싶다" "이해할 수없는 것보다 지원 포함으로 자세히 가르치는 편이 안심"라는 분에게는 입수가 쉬운 야마토 서방의 "자신의 작은 "상자"에서 탈출하는 방법"을 추천합니다.
모처럼이므로 제대로 읽어 보려는 분에게는, 분춘 네스코의 「상자」를 읽은 후, 문고 본 부록의 해설을 읽는 기분으로 「자신의 작은 「상자」로부터 탈출하는 방법」을 읽는 것을 추천합니다. 「픽업 흘림」을 줄일 수 있고, 원작을 읽고 나서 영화를 보는 것 같은 느낌으로 재미있을까라고 생각합니다.
■【원본】추천은 이쪽 도서관이나 고서에서 부디
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