Wednesday, March 19, 2025

Nobuhiko Utsumi - 【トランプ前政権は、政権交代前から第二次世界大戦中の日系人強制収容を研究して、イスラム教徒の強制収... | Facebook

(2) Nobuhiko Utsumi - 【トランプ前政権は、政権交代前から第二次世界大戦中の日系人強制収容を研究して、イスラム教徒の強制収... | Facebook

【トランプ前政権は、政権交代前から第二次世界大戦中の日系人強制収容を研究して、イスラム教徒の強制収容を準備していた前科があります。今日、トランプ政権が敵性外国人法を適用して不法移民の強制送還を行っていることに、日系アメリカ人による反対運動が高まっていることに、多くの在アメリカ「在留邦人」が沈黙しているのは、在アメリカ駐在員だのその家族だのにある「名誉白人」意識による特権階級意識によるものでしょう。ナチ時代のドイツでユダヤ系ドイツ人に加えられた強制送還、強制収容において、レイシズムの攻撃は身分と特権階級に拘らず荒れ狂ったことを知らないのか、あるいは内心怯えていながら自分だけは例外だという願望にすがっているからです。】
2016年11月18日
 トランプは、合州国のモスレムの登録制を義務付けてようとしていますが、トランプは、第二次世界大戦中の日系人の強制収容を元シールズメンバーに研究させ、モスレムの強制収容を考えています。トランプは、合州国の1000万人近いモスレムの強制収容を、一部とはいえ本気で狙っているように思います。トランプ支持者は、これでもまだトランプを支持するのでしょうか?
 日本でトランプ支持者であることを表明しているレイシストには、大学教授が多いですね。安全地帯で長年講釈をしていて、浮き世離れした日常を続けてきた専門バカには、差別も抑圧も解釈の問題でしかないんでしょう。トランプによって恐怖と不安に怯える合州国のマイノリティの日常など、非情な元学校秀才にとって何とも思わないんでしょうか。
 レイシストは、歴史から学ばない愚か者です。トランプを支持する連中が、トランプのような愚か者という偽りの対象に情熱を傾ける結果が、悲惨と暗黒と絶望を生むことを理解する時には手遅れとなり、支持した愚か者自身が救い様の無い存在となっていることでしょう。トランプがモスレムやヒスパニックの強制収容を始め、国際法廷でミロシェヴィッチのように裁かれる日が来るでしょう。今、トランプはヒラリーよりはマシだとか、トランプがネオリベを変えるとか講釈している連中は、その時にはトランプにはずっと批判的だったなんて言い出すんでしょうね。まるで評論家ですね。
 以下に日系人について早稲田大学ドロップアウト塾で話したまとめを再掲します。ご参考になさってください。
 12万人にも及んだ日系人強制収容は、1942年2月『大統領行政命令9066号』によって実行されました。この法令は議会、裁判、公聴会など一切の民主的な手続きを経ずに大統領の全権委任法に近い形で施行されました。真珠湾奇襲のショックで反日世論が高まる中、日系人は「敵性外国人」であり、暴動やスパイを謀る可能性があるとみなされたのです。その後、ようやくレーガンの時代に合衆国政府としての公式な謝罪と賠償がなされるが、今も日系人社会はその傷跡を抱えているのです。
 日系人強制収容の目的の一つは略奪です。強制収容の実態は全財産没収であり、企業や店舗、家具や高価な物のほとんどが略奪に遭ったのです。ユダヤ人がゲシュタポに送られた時に、多くは兵士や近所に住む者が略奪を行いましたが、全く同じです。当時のロサンゼルスにはかなり裕福な日系人もいて、カリフォルニア州の5%の農地を日系人が所有しており、農家全体の10%の収益を出していました。そうしたことに対する日系人へのやっかみや恨みが人種差別や偏見を生み1920年代の排日法に繋がっていったのです。
 しかし1924年に排日移民法が制定された後も、在留資格を得る形での移民は続き、満蒙開拓団と平行して、推定100万人から150万人の日系移民が中南米に入り、最も多かったのはブラジルとペルーです。ペルーやアメリカで多くの日系人と交流する中で、日系人1世が沖縄、福島、北海道、新潟の出身であるケースが多いことに気づきました。最初の日系移民が「明治元年」であったことから考えられるのは戊辰戦争への報復です。戦後、福島や新潟に集中的に原発を建設したことについても、戊辰戦争が関係しているのではないでしょうか。
 日系人を「棄民」と呼ぶ極右がいますが、それは日系移民への露骨な差別を表す言葉です。合州国上院議員のダニエル・イノウエと岸信介が会合し、「次の日本大使は日系人が好ましい」とイノウエが言ったところ、岸は「そんな食いつめた移民の子孫に務まるのか」と切り捨てたと言います。今でも日本の官僚や外務省などには日系人を「日本を捨てた裏切り者」として見下す傾向が残っています。戦前の日本は、軍事大国である一方で人々の生活は非常に貧しく、東北や沖縄を度々飢饉が襲っています。「ソテツ地獄」とまで言われた沖縄の窮状は、江戸時代から続く薩摩藩の収奪が原因です。沖縄出身の日系人で、自身が「日系」と呼ばれることに違和感を持つ者は多く、日系人には、日韓「併合」と同様に沖縄は日本に「併合」されたという認識があるからです。
 合州国国内11か所の日系人強制収容所は、ビルケナウ、アウシュヴィッツと並んで20世紀の建築史の負の遺産です。日系人強制収容所での隔離、監禁はモダニズムの極地であり、現在でも団地、学校、工場等に同様の構造が残っています。アイダホ州では収容所は2番目に人口の多い都市になったのです。収容所内の生活を撮影し続けた写真家に東洋宮武がいて、彼は収容者の身でありながら、手製のカメラと密かに仕入れたフィルムで膨大な記録を残しました。またアンセル・アダムスやエドワード・ウェストンも、政府への抗議の思いを込めて収容所の人々をカメラにおさめました。
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大山 珠枝さんがまとめを書いてくれました。
早稲田大学「内海先生のドロップアウト塾」2013年第2期第2回
「それぞれの太平洋戦争と現在 日系アメリカ人の強制収容体験とは何だったのか」
(2013.10.28) 講義まとめ 大山珠枝=文
 映画『愛と哀しみの旅路』(アラン・パーカー監督、タムリン・トミタ主演、1990年公開)から本講義は始まった。日本軍の真珠湾奇襲によって太平洋戦争開戦直後、主にアメリカ西部沿岸各州で行われた日系アメリカ人の強制収容を扱った作品である。
 日系人強制収容は『大統領行政命令9066号』によって実行された。その法令は議会、裁判、公聴会など一切の民主的な手続きを経ずに大統領の全権委任法に近い形で施行された。真珠湾奇襲のショックで反日世論が高まる中、日系人は「敵性外国人」であり暴動やスパイを謀る可能性があるとみなされたのである。レーガンの時代に合衆国政府としての公式な謝罪と賠償がなされるが、今でも日系人社会はその傷跡を抱えている。
 また太平洋戦争中、ハワイの日系人で編成された第100歩兵大隊に所属し、数々のヨーロッパ戦線を経験したある元兵士は、戦後日本車と紅白を何より嫌悪したという。戦後の日本はゼロ戦をトヨタ、日産の車に転換してアメリカに攻め入ったという認識である。日系人であるからこそ、何故太平洋戦争のような馬鹿げた戦争をやったのか、という憤りは非常に大きかった。
 日系人にとって、太平洋戦争とはどのような体験だったのか。彼らのようにアメリカで生まれ、英語で物事を考え、人生のかなりの部分を自分で選択できる社会に育った人々はどのように戦争を考えていたのか。本講義では、彼らの社会的背景や歴史とともに考えていく。
1、 日系人とは何か―リトル東京と排日諸法
 「日系人」という言葉の定義を問う時、むしろ日本人とは何かという疑問が生まれる。日本人を定義付けるものは国籍、領土、言語か。あるいは「非国民」という昨今の流行語が示す通り、特定の思想を持つことなのか。日系人にとって言語がアイデンティティーの重要な要素とは言えない。日系2世、3世で日本語を流ちょうに話せる者は少ない。4世になれば子どもの頃に祖父母から日本語の歌を教わったことがある、という程度になる。むしろ彼らは日本の音楽、食べ物、習慣の方をより重要視している。例えば沖縄出身の日系人の中には、沖縄エイサーを踊ることで親族の結束を強めていることが多い。
 2013年8月、内海先生(以下、敬省略)は14名の学生と共にロサンゼルスのリトル東京を訪れた。内海にとって3回目の今回の訪問は、非常に辛い思いをもたらした。
 明治初めに移民した日系1世は中国移民の5分の1程度の賃金で、まるで農奴のように働いた。日当何セントという世界である。そしてお金を貯めて農地を買い、日本にいる家族や親戚を呼んだ。リトル東京は雑貨屋、クリーニング屋、花屋、食べ物屋などから始まった。創業者にとっては元手があまりかからない商売が条件だった。戦後アメリカで最初の寿司屋ができたのもこの街である。だが現在の街には廃業の店が多く見られた。戦時中、日系人強制立ち退きの命令が出た後は街中で略奪が絶えなかったという。略奪に遭った後の店に、ジャズクラブやブラックのミュージシャンが入ることがあった。
 内海の辛さは、在特会によるヘイトスピーチが原因の1つだった。在特会の街頭演説が始まって以来、一般客が怖がって近寄れなくなり、コリアンタウンの売り上げは2割以上も落ちた。おそらく在日コリアンを社会的に孤立させることが在特会の狙いなのだろう。背後にある組織はおそらく自民党や宗教団体を名乗った極右勢力である。極右は朝鮮学校無償化に反対するなどして、在日コリアンが長年の努力の末にようやく勝ち取った社会的諸権利を「特権」とみなしてさらに剥奪しようとしている。
 現在の在日コリアンは、1930年代にドイツにいたユダヤ人、共産主義者、社会主義者、同性愛者と同じ思いでいるのではないだろうか。つまり周囲が常に自分を敵視し、密告や通報の対象として監視している。いつも落ち度を探されているような心境である。それは日系人が今まで受けてきた差別や迫害に重なる。在日コリアンを攻撃しながら、一方で日系人強制収容に批判的であることには強い違和感がある。普段は加害者である者が、自分の周囲が被害者になった途端に立場性が逆転するのである。 
 日系人強制収容の目的の1つは略奪であった。実態は全財産没収であり、家具や高価な物のほとんどが略奪に遭った。ユダヤ人がゲシュタポに送られた時のように、多くは兵士や近所に住む者が略奪を行った。当時のロサンゼルスにはかなり裕福な日系人もいた。記録によれば、カリフォルニア州の5%の農地を日系人が所有しており、農家全体の10%の収益を出していた。そうしたことに対する日系人へのやっかみや恨みが人種差別や偏見を生み、1920年代の排日諸法に繋がっていった。だが1924年に排日移民法が制定された後も在留資格を得る形での移民は続いた。満蒙開拓団と平行して、推定100万人から150万人の日系移民が中南米に入っていった。最も多かったのはブラジルとペルーである。
2、 日系移民の背景
 ペルーやアメリカで多くの日系人と交流する中で、1世が沖縄、福島、北海道、新潟の出身であるケースが多いことに気がついた。最初の日系移民が明治元年であったことからも、考えられるのは戊辰戦争との関連性である。戦後、福島や新潟に集中的に原発を建設したことについても、戊辰戦争の社会的影響力が関係しているだろう。
 「棄民」は日系移民への露骨な差別感情を表す言葉である。それに関連するある逸話が残っている。アメリカ上院議員のダニエル・イノウエと岸信介が会合し、「次の日本大使は日系人が好ましい」とイノウエが言ったところ、岸は「そんな食いつめた移民の子孫に務まるのか」と切り捨てたという。今でも日本の官僚や外務省などには日系人を「日本を捨てた裏切り者」として見下す傾向が残っている。確かに明治から昭和にかけての日本は、軍事大国である一方で国民の生活は非常に貧しく、東北や沖縄を度々飢饉が襲った(「ソテツ地獄」とまで言われた沖縄の貧困は、江戸時代から続く薩摩藩の収奪が原因である。沖縄出身の日系人で、自身が「日系」と呼ばれることに違和感を持つ者は多い。彼らには、日韓「併合」と同様に沖縄は日本に「併合」されたという認識があるからである)。しかし貧困だけが動機とは言えない。1世は貧しい生活を打開し、一旗揚げるという気概を持っていた。「日本ではできないことをやってみたい」というビジョンがあったことも忘れてはいけない。
 アメリカは日本よりもはるかに言論の自由とチャンスに恵まれており、芸術家として生計を立てること、農園や果樹園を始めるのに適している。しかしそうした積極的な理由とともに、明治に移民した者にとっては国民皆兵を逃れることも大きな理由だった。当時の日本で戦争で死なないためには、大学に進学して徴兵を免除されるか、逆に陸軍士官学校を出て高級軍人になるかの2択であった。
 日系人は何世代にも渡る努力によって現在の社会的地位を築いている。だから日本の企業や政府の派遣や留学生など、日本に帰ることを前提に滞在する「日本人」との区別を強調し、自身が「日系人」であることに誇りを抱いている。日本社会からドロップアウトし、カリフォルニアに初めて醤油、米、味噌を持参して栽培を始めた先人の苦労は並大抵ではない。岸の言葉は、日本社会に深く根付く皇国臣民化と同化の思想を最も端的に表している。つまり人種、民族、国家、国籍がイコールであり、個人のアイデンティティーそのものであるという日本的発想である。そうした発想から来る「島国根性」がもたらすものは、近現代の植民地主義の肯定である。海外派遣された企業の商社員や官僚の多くは、滞在先で運転手やメイド付きの豪華な生活を送っている。それは特に東南アジアや中国、朝鮮などにおいて、過去の植民地支配と同じ構図を再現しているとしか言いようがない。
2、国籍と国境
 教室にいる10代、20代、30代の23名の受講生で、将来移民を考えている者に挙手を求める簡単なアンケートを行った。結果はおよそ3分の1だった。福島原発の状況を理由として挙げる者がほとんどである。戦後、移民を考える者がここまで際立って増えたことはない。
 移民を考える上で、そもそもナショナリティーとは何か。民族や国家という観念が生まれたのはフランス革命以後である。近代の日本に固有に誕生した「多民族国家論」や「単一民族論」という国家の捉え方は実態から程遠いばかりか、極めてイデオロギー的である。ナチス・ドイツは独自の国家観を創造するために、国境や言語の取り締まりを強化した。ヨーロッパには人々が国境を往来しながら日常生活をおくり、5ヶ国語、7ヶ国語を共有していた地域が少なくなかった。排外主義者にとってそうしたナショナリティーを煽りにくい地盤がある地域は最も不都合だった。
 近現代に国境が定義される過程において、パスポートが意味を成さなくなる状況は何度もあった。例えば戦前の在樺太ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ウクライナ人は、樺太が大日本帝国の一部になるや「日本人」の国籍を得る。またロシアの亡命者は、帝政ロシアのパスポートを所持しているにも拘わらずハルピンに滞在している限りは満州国民とみなされた。出生地主義と血統主義という考え方があるが、出生地主義を採用している国でも事情によって血統を考慮せざるを得ないなど、実態は複雑である。ハーグ条約や残留孤児の問題に対して、日本政府はこれまで積極的な姿勢を示してこなかった。
3、 日系人にとっての太平洋戦争
 山崎豊子の小説『2つの祖国』を原作にした大河ドラマ『山河燃ゆ』(1984年)は、日系アメリカ人2世の兄弟が日本軍とアメリカ軍に分かれて戦場で再会するというストーリーである。国外での放送開始後、日系人から非常に悪評をかい、放送中止になった地域さえあった。批判の多くは、戦争体験の描写があまりに現実からかけ離れていたことにあった。しかしそうした最も触れにくい歴史をドラマ化することで、それを社会に広く認知させた側面もあった。
 時系列を追って太平洋戦争をみていこう。戦前から日系1世、2世は帰化不能外国人として市民権の取得が認められていなかった。日系人だけではなく他のアジアの国々の出身者に対して、人種を理由に帰化を拒絶する法律は1950年代まで施行された。そこにみられるアメリカの理念に反した人種差別や排日思想は、当時社会的に台頭しつつあった日系人に対する市民社会の焦燥感や恨みが背景である。
 1941年1月の真珠湾奇襲は大多数の日系人にとって青天のへきれきであり、この日を境に彼らの生活は一変してしまった。大きな憤りと失望が、ほとんどの日系人に共通する反応だった。社会のショックは非常に大きく、太平洋の海上に浮かぶ鯨の頭部を日本海軍の艦体と見間違えたという逸話は有名である。日本軍のアメリカ本土上陸が恐れられる中で、敵性外国人である日系人が暴動やスパイを手引きする可能性があると噂された。そうした排日世論を後ろ盾に施行された大統領行政命令9066法は、通達が出てから48時間以内の立ち退きを強要した。それは財産の収奪とともに、法的手続きを取らせないための処置であった。
 真珠湾奇襲は、連合艦隊司令長官である山本五十六が最も忌避させたかった行為であった。山本は早くから日本の戦闘力の限界を見極めていた。日米開戦の直前、近衛文麿との会話において戦争が1年以上に及ぶ場合、海軍だけではもたないと述べている。つまり陸軍は毛沢東の戦略的持久戦論にはまり、中国の内地で完全な膠着状態に陥っていた。その状態で3国同盟を結び、アメリカ、イギリスを始めとする世界80カ国以上を敵にすることは、破滅を意味していた。そのため中国から撤兵し、満州国を放棄してでも日米戦争だけは避けなければならないと山本は主張していた。それにも拘わらず、何故真珠湾奇襲は実行されたのか。破滅を予期しながらも実行したことに、原発政策との共通点がみられる。日本列島は砂と泥でできた極めて脆弱な地盤の島であり、原発立地地域からも多数の活断層が見つかっている。しかし事故後も尚、支配層は原発の輸出や再稼働を推進している。
 第442連隊と第100歩兵大隊について述べたい。その2つの部隊は北アフリカ戦線、イタリア戦線、アルザス戦線などの激戦地で数々の大挙を成し遂げた。第442連隊は強制収容所内で募集がかけられ、アメリカに対する2つの忠誠項目にYESと回答した人々の中から選出された。彼らには、自らの戦死によって収容所の家族が少しでも救われることを望む絶望に近い思いがあったに違いない。また第100歩兵大隊はハワイの日系人で編成された部隊である。後者は戦後復元され、イラクや中東に派兵されている。
 日系部隊は33000人が従軍し、9486人の死傷者を出した。死傷率は314%にのぼる。彼らは白人部隊の弾避け、消耗品のように使われ、生命が顧みられることはなかった。つまり生きるためではなく、死ぬために戦う様な状態であった。その最たる例はテキサス大隊の救出である。フランス中部のヴォージュ山で孤立した211名の救出のために、日系部隊は800名もの死傷者を出した。
 戦後ようやく日系部隊はその功績を認められ、陸軍史上最多の勲章を授与される。しかしミュンヘンのダッハウ強制収容所の解放やローマ進駐を始めとする数々の功績は、当時も今もほとんど知られていない。反ファシズムを標榜するアメリカにとって、強制収容所でユダヤ人などと同じ処遇を受けた日系人の実績を大々的に報道することは非常に不都合だった。ローマ解放の直前、国道のドイツ軍要塞を攻略しながら10キロの地点まで進軍していた日系人部隊に突然停止命令が下った。待機する彼らを追い抜き、白人の輸送部隊が進駐1番乗りを果たしたことさえあった。
 日系人部隊の存在は戦時中の日本においても知られていた。日本では日系人強制収容は大東亜解放のための聖戦の裏付けとして利用されていた。日系人部隊は尊い愛国心の持ち主として演出するために、戦前に東条英機が日系人兵士に対して「アメリカという祖国のために戦うべき」と語ったという話さえある。しかし日系部隊は実際には「大東亜解放」と「白人の横暴」のどちらに対しても戦ったのではないか。生き延びた元兵士たちの多くは、戦後堅く沈黙した。それは想像以上に悲惨な体験を経た証である。彼らは自分のアイデンティティーを剥がされ、生身の人間として戦ったのではないだろうか。
 また陸軍情報部に編入された日系人兵士は、日本軍の軍事機密の盗聴の他、捕虜の尋問、地図、日記、メモの解読などを行った。彼らは薩摩大隅弁さえも聞きとったと言われる。様々な点で、同じく陸軍情報部に配属されたアメリカ先住民のナバホ族との関連性がみられる。
 国内11か所の日系人強制収容所は、ビルケナウ、アウシュヴィッツと並んで20世紀の建築史の負の遺産である。隔離、監禁はモダニズムの極地であり、現在でも団地、学校、工場等に同様の構造が残っている。アイダホ州では収容所は2番目に人口の多い都市になった。収容所内の生活を撮影し続けた写真家に東洋宮武がいる。彼は同じ囚人の身でありながら、手製のカメラと密かに仕入れたフィルムで膨大な記録を残した。またアンセル・アダムスやエドワード・ウェストンも政府への抗議の思いを込めて収容所の人々をカメラにおさめた。彼らの写真は当時を知るための貴重な資料になっている。
4、 戦後の日系人社会
 2013年7月、麻生太郎は「改憲についてナチスの手口を学んだらどうか」と発言し、国内外で激しく糾弾された。ロサンゼルスのサイモン・ヴィーゼル・センターはそれに対して最も素早く抗議した組織の1つである。1週間後、内海のワークショップは同センターを訪れるものの、閉館時間等の理由をこじつけられた上、入館を拒否される。彼らに対する職員の対応は非常に冷淡であり、まるで麻生の無責任な発言が日本人全体の意見に置き換えられているようであった。日本は歴史認識を共有しない奇異な国であるという認識が広まる中で、それが日本異質論や人種の問題に還元されることによって、日系人の1人1人が不必要な軋轢を被っている。
 その意味で日系人社会と日本社会は連動している。戦後日系人が歩んできた道のりは、現在の日本に起こりつつあることの先例のようである。日本の学校、会社、家庭で福島原発の破局的状況を語り、「汚染水の漏出はコントロールされている」という首相の発言に意見することは極めて難しい。それは戦後、ブラジルやペルーの日系人社会で起きた「勝ち組」と「負け組」に非常によく似ている。当時、「日本は勝利した」と言わない者はテロや殺害の対象になった。常に周囲に同調し、空気をよむ風潮は両者に共通している。今、日系人社会について深く学ぶ意義は大きいのではないだろうか。
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Nobuhiko Utsumi
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【트럼프 전 정권은, 정권 교체 전부터 제2차 세계 대전중의 일본계인 강제 수용을 연구해, 무슬림의 강제 수용을 준비하고 있던 전과가 있습니다. 오늘, 트럼프 정권이 적성 외국인법을 적용해 불법 이민의 강제 송환을 실시하고 있는 것에, 일본계 미국인에 의한 반대 운동이 높아지고 있는 것에, 많은 재미국 「재류방인」이 침묵하고 있는 것은, 재미 미국 주재원인 그 가족인데 있는 「명예백인」의식에 의한 특권 계급 의식에 의한 나치 시대의 독일에서 유대계 독일인에게 가해진 강제 송환, 강제 수용에 있어서, 레이시즘의 공격은 신분과 특권 계급에 관계없이 거칠어 미친 것을 모르는지, 혹은 내심 겁내면서 자신만은 예외라고 하는 소망에 빠져 있기 때문입니다. 】
2016년 11월 18일
 트럼프는 합주국의 모슬렘 등록제를 의무화하려고 하고 있지만, 트럼프는 제2차 세계 대전 중 일본인의 강제 수용을 전 실즈 멤버에게 연구시켜, 모슬렘의 강제 수용을 생각하고 있습니다. 트럼프는, 합주국의 1000만명 가까운 모슬렘의 강제 수용을, 일부라고는 해도 진심으로 노리고 있는 것 같습니다. 트럼프 지지자는 여전히 여전히 트럼프를지지합니까?
 일본에서 트럼프 지지자임을 표명하고 있는 레이시스트에는 대학 교수가 많네요. 안전지대에서 오랫동안 강석을 하고 있어 부유한 일상을 이어온 전문 바보에는 차별도 억압도 해석의 문제일 뿐이지요. 트럼프에 의해 공포와 불안에 무서워하는 합주국의 마이너리티의 일상 등, 비정한 전학교 수재에 있어서 뭐라고 생각하지 않겠습니까.
 레이시스트는 역사에서 배우지 못하는 바보입니다. 트럼프를 지지하는 무리가 트럼프와 같은 어리석은 자라는 거짓 대상에 열정을 기울이는 결과가 비참과 암흑과 절망을 낳는 것을 이해할 때는 늦어지고, 지지한 어리석은 자신이 구원이 없는 존재가 되고 있는 것입니다. 트럼프가 모슬렘과 히스패닉의 강제 수용을 시작하고 국제 법정에서 미로셰비치처럼 심판되는 날이 올 것입니다. 지금, 트럼프는 힐러리보다는 낫다든가, 트럼프가 네오리베를 바꾼다든가 강석하고 있는 연중은, 그 때에는 트럼프에는 쭉 비판적이었다고 말하는 것이지요. 마치 평론가군요.
 이하에 일본계인에 대해 와세다 대학 드롭 아웃 학원에서 말한 정리를 재게재합니다. 참고하시기 바랍니다.
 12만명에 달하는 일본인 강제수용은 1942년 2월 '대통령 행정명령 9066호'에 의해 실행되었습니다. 이 법령은 의회, 재판, 공청회 등 일체의 민주적인 절차를 거치지 않고 대통령의 전권 위임법에 가까운 형태로 시행되었습니다. 진주만 기습의 충격으로 반일 여론이 높아지는 가운데, 일본계인은 「적성 외국인」이며, 폭동이나 스파이를 모를 가능성이 있는 것으로 간주되었습니다. 그 후 마침내 레이건 시대에 미국 정부로서의 공식적인 사과와 배상이 이루어지지만, 지금도 일본계 사회는 그 흉터를 안고 있습니다.
 일본계 강제 수용의 목적 중 하나는 약탈입니다. 강제 수용의 실태는 전재산 몰수이며, 기업이나 점포, 가구나 비싼 물건의 대부분이 약탈을 당한 것입니다. 유대인이 게슈타포로 보내졌을 때, 대부분은 군인이나 이웃에 사는 자가 약탈을 했지만 똑같습니다. 당시 로스앤젤레스에는 상당히 부유한 일본계인도 있었고, 캘리포니아주의 5%의 농지를 소유하고 있으며, 농가 전체의 10%의 수익을 내고 있었습니다. 그런 것에 대한 일본계인에 대한 야카미나 원한이 인종차별이나 편견을 만들어 1920년대의 배일법으로 연결되어 갔습니다.
 그러나 1924년 배일이민법이 제정된 뒤에도 재류자격을 얻는 형태로 이민은 이어 만몽개척단과 평행하여 추정 100만명에서 150만명의 일본이민이 중남미에 들어가 가장 많았던 것은 브라질과 페루입니다. 페루나 미국에서 많은 일본계인과 교류하는 가운데 일본계인 1세가 오키나와, 후쿠시마, 홋카이도, 니가타의 출신인 케이스가 많은 것을 깨달았습니다. 최초의 일본계 이민이 「메이지 원년」이었던 것으로 생각되는 것은 戊辰 전쟁에 대한 보복입니다. 전후, 후쿠시마나 니가타에 집중적으로 원전을 건설한 것에 대해서도, 戊辰 전쟁이 관계하고 있는 것은 아닐까요.
 일본계인을 「기민」이라고 부르는 극우가 있습니다만, 그것은 일본계 이민에의 노골적인 차별을 나타내는 말입니다. 합주국 상원의원인 다니엘 이노우와 기시신스케가 회합해 “다음 일본 대사는 일본인이 선호한다”고 이노우가 말했는데, 기시는 “그런 먹은 이민자의 후손으로 봉사할 것인가”라고 잘라 버렸다고 합니다. 지금도 일본의 관료나 외무성 등에는 일본계인을 「일본을 버린 배신자」로서 내려다 보는 경향이 남아 있습니다. 전쟁 전 일본은 군사 대국인 반면 사람들의 생활은 매우 가난하고, 동북과 오키나와를 종종 기근이 덮치고 있습니다. 「소테츠 지옥」이라고까지 말해진 오키나와의 궁상은, 에도시대부터 계속되는 사쓰마번의 수탈이 원인입니다. 오키나와 출신의 일본계인으로, 자신이 「일계」라고 불리는 것에 위화감을 가지는 사람은 많고, 일본계인에는, 한일 「병합」과 같이 오키나와는 일본에 「병합」되었다고 하는 인식이 있기 때문입니다.
 합주국내 11곳의 일본계 강제수용소는 비르케나우, 아우슈비츠와 함께 20세기 건축사의 부의 유산입니다. 일본계 강제수용소에서의 격리, 감금은 모더니즘의 극지이며, 현재에도 단지, 학교, 공장 등에 유사한 구조가 남아 있습니다. 아이다호 주에서는 수용소가 두 번째로 인구가 많은 도시가 되었습니다. 수용소에서의 생활을 계속 촬영한 사진가에 동양궁무가 있었고, 그는 수용자의 몸이면서, 수제 카메라와 비밀리에 매입한 필름으로 방대한 기록을 남겼습니다. 또한 앙셀 아담스와 에드워드 웨스턴도 정부에 대한 항의의 생각을 담아 수용소 사람들을 카메라에 거두었습니다.
ㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋ
오야마 쥬에 씨가 정리를 썼습니다.
와세다대학 “내해 선생님의 드롭아웃 학원” 2013년 제2기 제2회
「각각의 태평양 전쟁과 현재 일본계 미국인의 강제 수용 체험이란 무엇이었는가」
(2013.10.28) 강의 정리 오야마 쥬에다 = 문
 영화 '사랑과 슬픔의 여로'(앨런 파커 감독, 타무린 토미타 주연, 1990년 공개)부터 본 강의는 시작되었다. 일본군의 진주만 기습에 의해 태평양 전쟁 개전 직후 주로 미국 서부 연안 각주에서 행해진 일본계 미국인의 강제 수용을 다룬 작품이다.
 일본계 강제수용은 '대통령 행정명령 9066호'에 의해 수행되었다. 그 법령은 의회, 재판, 공청회 등 일체의 민주적인 절차를 거치지 않고 대통령의 전권 위임법에 가까운 형태로 시행되었다. 진주만 기습의 충격으로 반일 여론이 높아지는 가운데, 일본계인은 「적성 외국인」이며 폭동이나 스파이를 모를 가능성이 있다고 보여진 것이다. 레이건 시대에 미국 정부로서의 공식 사과와 배상이 이루어지지만, 지금도 일본계 사회는 그 흉터를 안고 있다.
 또 태평양전쟁 중 하와이의 일본계인으로 편성된 제100보병대대에 소속되어 수많은 유럽 전선을 경험한 한 전 병사는 전후 일본차와 홍백을 무엇보다 혐오했다고 한다. 전후의 일본은 제로전을 도요타, 닛산의 차로 전환해 미국에 공격했다는 인식이다. 일본계인이기 때문에 왜 태평양전쟁과 같은 바보같은 전쟁을 했는가 하는 분노는 매우 컸다.
 일본계인에게 있어서, 태평양 전쟁이란 어떤 체험이었는가. 그들처럼 미국에서 태어나 영어로 사물을 생각하고 인생의 상당 부분을 스스로 선택할 수 있는 사회로 자란 사람들은 어떻게 전쟁을 생각하고 있었는가. 본 강의에서는, 그들의 사회적 배경이나 역사와 함께 생각해 간다.
1, 일본계인이란 무엇인가 - 리틀 도쿄와 배일 제법
 「일계인」이라는 말의 정의를 묻는 때, 오히려 일본인이란 무엇인가라는 의문이 생긴다. 일본인을 정의하는 것은 국적, 영토, 언어? 혹은 「비국민」이라고 하는 요즈음의 유행어가 나타내는 대로, 특정의 사상을 가지는 것인가. 일본계에 있어서 언어가 아이덴티티의 중요한 요소라고는 말할 수 없다. 일본계 2세, 3세로 일본어를 흐르게 말할 수 있는 사람은 적다. 4세가 되면 어릴 적에 조부모로부터 일본어 노래를 가르친 적이 있다는 정도가 된다. 오히려 그들은 일본 음악, 음식, 습관을 더 중요시하고 있다. 예를 들어 오키나와 출신의 일본계인 중에는 오키나와 에이서를 춤으로 친족의 결속을 강화하고 있는 경우가 많다.
 2013년 8월, 내해 선생(이하, 경 생략)은 14명의 학생과 함께 로스앤젤레스의 리틀 도쿄를 방문했다. 내해에 있어서 3번째의 이번 방문은, 매우 괴로운 생각을 가져왔다.
 메이지 초기에 이민한 일본계 1세는 중국 이민의 5분의 1 정도의 임금으로 마치 농노처럼 일했다. 일당 몇 센트라는 세계이다. 그리고 돈을 모아 농지를 사서 일본에 있는 가족과 친척을 불렀다. 리틀 도쿄는 잡화점, 클리닝 가게, 꽃집, 음식점 등에서 시작되었다. 창업자에게는 원수가 별로 걸리지 않는 장사가 조건이었다. 전후 미국에서 최초의 초밥집이 생긴 것도 이 거리이다. 하지만 현재의 거리에는 폐업의 가게가 많이 보였다. 전시중, 일본계 강제 퇴거의 명령이 나온 뒤는 거리에서 약탈이 끊이지 않았다고 한다. 약탈을 당한 후의 가게에 재즈 클럽이나 블랙 뮤지션이 들어가는 일이 있었다.
 내해의 괴로움은 재특회에 의한 헤이트 스피치가 원인 중 하나였다. 재특회의 가두연설이 시작된 이래 일반객이 무서워서 다가오지 않아 코리안타운 매출은 20% 이상 떨어졌다. 아마 재일 코리안을 사회적으로 고립시키는 것이 재특회의 목적일 것이다. 배후에 있는 조직은 아마 자민당이나 종교단체를 자칭한 극우세력일 것이다. 극우는 조선학교 무상화에 반대하는 등 재일 코리안이 오랜 노력 끝에 겨우 이겨낸 사회적 제권리를 '특권'으로 간주해 더욱 박탈하려고 하고 있다.
 현재의 재일 코리안은, 1930년대에 독일에 있던 유태인, 공산주의자, 사회주의자, 동성애자와 같은 생각으로 있는 것은 아닐까. 즉 주위가 항상 자신을 적시해, 밀고나 통보의 대상으로서 감시하고 있다. 언제나 떨어지는 정도를 찾는 듯한 심경이다. 그것은 일본인이 지금까지 받은 차별과 박해에 겹친다. 재일 코리안을 공격하면서 한편으로 일본계 강제수용에 비판적이라는 데는 강한 위화감이 있다. 평소에는 가해자인 자가 자신의 주위가 피해자가 된 순간 입장성이 역전되는 것이다. 
 일본계 강제 수용의 목적 중 하나는 약탈이었다. 실태는 전재산 몰수였고, 가구나 비싼 물건의 대부분이 약탈을 당했다. 유대인이 게슈타포로 보내졌을 때처럼, 많은 사람들은 군인과 이웃에 사는 사람들이 약탈했습니다. 당시 로스앤젤레스에는 꽤 부유한 일본인도 있었다. 기록에 의하면, 캘리포니아주의 5%의 농지를 일계인이 소유하고 있어 농가 전체의 10%의 수익을 내고 있었다. 그런 것에 대한 일본계인에 대한 야카미와 원한이 인종차별이나 편견을 낳아 1920년대의 배일제법으로 연결되어 갔다. 하지만 1924년 배일이민법이 제정된 뒤에도 재류자격을 얻는 형태로 이민은 이어졌다. 만몽개척단과 평행해 추정 100만명에서 150만명의 일본이민이 중남미에 들어갔다. 가장 많았던 것은 브라질과 페루였다.
2, 일본 이민 배경
 페루나 미국에서 많은 일본인과 교류하는 가운데 1세가 오키나와, 후쿠시마, 홋카이도, 니가타 출신인 경우가 많다는 것을 깨달았다. 최초의 일본계 이민이 메이지 원년이었던 것에서도, 생각할 수 있는 것은 戊辰 전쟁과의 관련성이다. 전후, 후쿠시마나 니가타에 집중적으로 원전을 건설한 것에 대해서도, 戊辰 전쟁의 사회적 영향력이 관계하고 있을 것이다.
 '기민'은 일본계 이민에 대한 노골적인 차별감정을 나타내는 말이다. 그것에 관련된 몇몇 일화가 남아 있다. 미국 상원 의원인 다니엘 이노우와 기시신스케가 회합해 “다음 일본 대사는 일본인이 선호한다”고 이노우가 말한 바, 기시는 “그런 먹은 이민자의 후손으로 봉사할 것인가”라고 버렸다고 한다. 지금도 일본 관료와 외무성 등에는 일본인을 '일본을 버린 배신자'로 내려다보는 경향이 남아 있다. 확실히 메이지에서 쇼와에 이르는 일본은, 군사대국인 한편으로 국민의 생활은 매우 가난하고, 토호쿠나 오키나와를 종종 기근이 덮쳤다(「소테츠 지옥」이라고까지 말해진 오키나와의 빈곤은, 에도시대부터 계속되는 사츠마 번의 수탈이 원인이다. 오키나와 출신은 많다. 그들에게는 한일 병합과 마찬가지로 오키나와는 일본에 병합되었다는 인식이 있기 때문이다. 그러나 빈곤만이 동기라고는 할 수 없다. 1세는 가난한 생활을 타개하고 일기를 튀긴다는 기개를 가지고 있었다. “일본에서는 할 수 없는 일을 해보고 싶다”는 비전이 있었던 것도 잊지 말아야 한다.
 미국은 일본보다 훨씬 언론의 자유와 기회가 풍부하고 예술가로서 생계를 세우는 것, 농원과 과수원을 시작하는데 적합하다. 그러나 그러한 적극적인 이유와 함께 메이지에 이민한 자에게는 국민 모두 병사를 피하는 것도 큰 이유였다. 당시 일본에서 전쟁으로 죽지 않기 위해서는 대학에 진학해 징병을 면제받을지, 반대로 육군사관학교를 나와 고급군인이 될지 2가지였다.
 일본계인은 수세대에 걸친 노력에 의해 현재의 사회적 지위를 구축하고 있다. 그래서 일본 기업이나 정부의 파견이나 유학생 등 일본으로 돌아가는 것을 전제로 체재하는 '일본인'과의 구별을 강조해 자신이 '일계인'임에 자부심을 품고 있다. 일본 사회에서 드롭아웃해 캘리포니아에 처음으로 간장, 쌀, 된장을 지참해 재배를 시작한 선인의 고생은 평소가 아니다. 기시의 말은 일본사회에 깊이 뿌리내리는 황국신민화와 동화의 사상을 가장 단적으로 나타내고 있다. 즉 인종, 민족, 국가, 국적이 이콜이고 개인의 정체성 자체라는 일본적 발상이다. 그러한 발상에서 오는 '섬 국근성'이 가져오는 것은 근현대 식민지주의의 긍정이다. 해외 파견된 기업의 상사원과 관료의 대부분은, 체류처에서 운전자나 메이드 첨부의 호화로운 생활을 보내고 있다. 그것은 특히 동남아시아나 중국, 조선 등에서 과거 식민지 지배와 같은 구도를 재현하고 있다고 밖에 말할 수 없다.
2, 국적과 국경
 교실에 있는 10대, 20대, 30대의 23명의 수강생으로, 장래 이민을 생각하고 있는 사람에게 거수를 요구하는 간단한 앙케이트를 실시했다. 결과는 대략 1/3이었다. 후쿠시마 원전의 상황을 이유로 꼽는 자가 대부분이다. 전후 이민을 생각하는 자가 여기까지 두드러져 늘어난 적은 없다.
 이민을 생각하는데 있어서, 원래 내셔널리티란 무엇인가. 민족과 국가라는 관념이 태어난 것은 프랑스 혁명 이후이다. 근대 일본에 고유하게 탄생한 '다민족국가론'과 '단일민족론'이라는 국가를 파악하는 방법은 실태와는 거리가 멀거나 지극히 이데올로기적이다. 나치 독일은 독자적인 국가관을 창조하기 위해 국경과 언어 단속을 강화했다. 유럽에는 사람들이 국경을 왕래하면서 일상생활을 하고, 5개 국어, 7개 국어를 공유하고 있던 지역이 적지 않았다. 배외주의자들에게 그런 내셔널리티를 부추기기 어려운 지반이 있는 지역은 가장 불편했다.
 근현대에 국경이 정의되는 과정에서 여권이 의미가 없어지는 상황은 여러 번 있었다. 예를 들면 전전의 재가타 러시아인, 폴란드인, 독일인, 우크라이나인은, 가타가 대일본 제국의 일부가 되면 「일본인」의 국적을 얻는다. 또한 러시아의 망명자는 제정 러시아 여권을 소지하고 있음에도 불구하고 할핀에 머물고 있는 한 만주 국민으로 간주되었다. 출생지주의와 혈통주의라는 생각이 있지만, 출생지주의를 채용하고 있는 나라에서도 사정에 따라 혈통을 고려할 수밖에 없는 등 실태는 복잡하다. 헤이그 조약과 잔류 고아 문제에 대해 일본 정부는 지금까지 적극적인 자세를 보이지 않았다.
3, 일본계인에게 있어서의 태평양 전쟁
 야마자키 토요코의 소설 '2개의 조국'을 원작으로 한 대하드라마 '야마가와 타오유'(1984년)는 일본계 미국인 2세의 형제가 일본군과 미군으로 나뉘어 전장에서 재회한다는 스토리이다. 국외에서의 방송 개시 후, 일본계인으로부터 매우 악평을 받고, 방송 중지가 된 지역마저 있었다. 비판의 대부분은 전쟁 체험의 묘사가 너무 현실에서 멀리 떨어진 것에 있었다. 그러나 그러한 가장 접하기 어려운 역사를 드라마화하는 것으로, 그것을 사회에 널리 인지시킨 측면도 있었다.
 시계열을 따라 태평양 전쟁을 보자. 전전부터 일본계 1세, 2세는 귀화 불능 외국인으로서 시민권의 취득이 인정되지 않았다. 일본계인뿐만 아니라 다른 아시아 국가들의 출신자들에게 인종을 이유로 귀화를 거절하는 법률은 1950년대까지 시행되었다. 거기에 보이는 미국의 이념에 반한 인종차별과 배일사상은 당시 사회적으로 대두되고 있던 일본계인에 대한 시민사회의 초조감과 원한이 배경이다.
 1941년 1월의 진주만 기습은 대다수의 일본인들에게 청천의 깨끗함이었고, 이날을 경계로 그들의 생활은 일변해 버렸다. 큰 분노와 실망이 대부분의 일본인에게 공통되는 반응이었다. 사회의 충격은 매우 크고, 태평양의 해상에 떠오르는 고래의 머리를 일본 해군의 함체로 잘못 틀렸다는 일화는 유명하다. 일본군의 미국 본토 상륙이 두려워되는 가운데 적성 외국인인 일본인이 폭동이나 스파이를 안내할 가능성이 있다고 소문이 났다. 그러한 배일 여론을 뒤 방패에 시행된 대통령 행정명령 9066법은 통달이 나온 지 48시간 이내의 퇴거를 강요했다. 그것은 재산의 수탈과 함께 법적 절차를 취하지 못하는 처치였다.
 진주만 기습은 연합함대 사령장관인 야마모토 56이 가장 기피하고 싶었던 행위였다. 야마모토는 일찍부터 일본의 전투력의 한계를 파악하고 있었다. 미·일 개전 직전, 근위 문면과의 대화에서 전쟁이 1년 이상에 이르는 경우, 해군만이 아니라고 말하고 있다. 즉 육군은 모택동의 전략적 지구전론에 빠져 중국의 내지에서 완전한 교착 상태에 빠져 있었다. 그 상태에서 3국 동맹을 맺고 미국, 영국을 비롯한 세계 80개국 이상을 적으로 하는 것은 파멸을 의미했다. 그 때문에 중국에서 철병해 만주국을 포기해도 미일전쟁만은 피해야 한다고 야마모토는 주장했다. 그럼에도 불구하고, 왜 진주만 기습은 실행되었는가. 파멸을 예상하면서도 실행한 것에 원전 정책과의 공통점이 보인다. 일본 열도는 모래와 진흙으로 만들어진 매우 취약한 지반의 섬이며, 원전 입지 지역에서도 다수의 활단층이 발견되고 있다. 그러나 사고 후에도 지배층은 원전 수출과 재가동을 추진하고 있다.
 제442연대와 제100보병대대에 대해 말하고 싶다. 그 두 부대는 북아프리카 전선, 이탈리아 전선, 알자스 전선 등의 격전지에서 수많은 대거를 이루었다. 제442연대는 강제수용소 내에서 모집을 받았고 미국에 대한 2개의 충성항목에 YES라고 응답한 사람들 중에서 선출되었다. 그들은 자신의 전사에 의해 수용소의 가족이 조금이라도 구원되기를 바라는 절망에 가까운 생각이 있었음에 틀림없다. 또 제100보병대대는 하와이의 일본계인으로 편성된 부대이다. 후자는 전후 복원되어 이라크나 중동으로 파병되고 있다.
 일본계 부대는 33000명이 종군해 9486명의 사상자를 냈다. 사상률은 314%에 이른다. 그들은 백인 부대의 탄피, 소모품처럼 사용되었고, 생명을 돌보지 못했다. 즉 살기 위해서가 아니라, 죽기 위해서 싸우는 것 같은 상태였다. 그 가장 좋은 예는 텍사스 대대의 구출이다. 프랑스 중부의 보주산에서 고립된 211명의 구출을 위해 일본계 부대는 800명의 사상자를 냈다.
 전후 드디어 일본계 부대는 그 공적을 인정받아 육군 사상 최다의 훈장을 수여받는다. 그러나 뮌헨의 다하우 강제 수용소 해방과 로마 진주를 비롯한 수많은 공적은 당시에도 지금도 거의 알려지지 않았다. 반파시즘을 표방하는 미국에 있어서, 강제수용소에서 유대인 등과 같은 처우를 받은 일본인의 실적을 대대적으로 보도하는 것은 매우 불편했다. 로마 해방 직전 국도 독일군 요새를 공략하면서 10㎞ 지점까지 진군하던 일본인 부대에 갑자기 정지 명령이 내려졌다. 대기하는 이들을 쫓아 백인의 수송부대가 진주 1번 승차를 완수한 것조차 있었다.
 일본계인 부대의 존재는 전시중의 일본에서도 알려져 있었다. 일본에서는 일본계 강제수용은 대동아 해방을 위한 성전의 뒷받침으로 이용되고 있었다. 일본계 부대는 소중한 애국심의 소유자로 연출하기 위해 전전에 도조에이키가 일본계 병사에 대해 “미국이라는 조국을 위해 싸워야 한다”고 말했다는 이야기조차 있다. 그러나 일본계 부대는 실제로는 '대동아 해방'과 '백인의 횡포' 어느 쪽에 대해서도 싸운 것이 아닐까. 살아남은 전 병사들의 대부분은 전후 굳게 침묵했다. 그것은 상상 이상으로 비참한 체험을 거친 증거이다. 그들은 자신의 정체성을 벗겨내고 생신의 인간으로서 싸운 것이 아닐까.
 또 육군정보부에 편입된 일본인 병사는 일본군의 군사기밀 도청 외에 포로 심문, 지도, 일기, 메모 해독 등을 실시했다. 그들은 사츠마 오스미 판도 들었다고 한다. 여러면에서 역시 육군정보부에 배속된 미국 원주민인 나바호족과의 관련성을 볼 수 있다.
 국내 11개소의 일본계 강제수용소는 비르케나우, 아우슈비츠와 함께 20세기 건축사의 부의 유산이다. 격리, 감금은 모더니즘의 극지이며, 현재에도 단지, 학교, 공장 등에 유사한 구조가 남아 있다. 아이다호 주에서는 수용소가 두 번째로 인구가 많은 도시가 되었다. 수용소 내의 생활을 계속 촬영한 사진가에 동양궁무가 있다. 그는 같은 죄수의 몸이면서 수제 카메라와 비밀리에 매입한 필름으로 방대한 기록을 남겼다. 또한 앙셀 아담스와 에드워드 웨스턴도 정부에 대한 항의의 생각을 담아 수용소 사람들을 카메라에 거뒀다. 그들의 사진은 당시를 알기 위한 귀중한 자료가 되고 있다.
4, 전후의 일본계 사회
 2013년 7월 아소 타로는 “개헌에 대해 나치의 수법을 배우면 어떨지”라고 발언해 국내외에서 격렬하게 규탄됐다. 로스앤젤레스의 사이먼 비젤 센터는 그것에 대하여 가장 빨리 항의한 조직의 한개이다. 1주일 후, 내해 워크숍은 동 센터를 방문하지만, 폐관 시간 등의 이유를 곁들인 뒤 입관을 거부된다. 그들에 대한 직원의 대응은 매우 냉담했고 마치 아소의 무책임한 발언이 일본인 전체의 의견으로 대체되는 것 같았다. 일본은 역사인식을 공유하지 않는 기이한 나라라는 인식이 퍼지는 가운데, 그것이 일본 이질론이나 인종의 문제로 환원됨으로써 일본계인의 1명 1명이 불필요한 갈등을 겪고 있다.
 그런 의미에서 일본계 사회와 일본 사회는 연동하고 있다. 전후 일본인이 걸어온 길은 현재의 일본에 일어나고 있는 일의 선례와 같다. 일본의 학교, 회사, 가정에서 후쿠시마 원전의 파국적 상황을 말하며 '오염수의 누출은 통제되고 있다'는 총리의 발언에 의견하는 것은 매우 어렵다. 그것은 전후, 브라질이나 페루의 일본인 사회에서 일어난 '승조'와 '패'와 매우 비슷하다. 당시 '일본은 승리했다'고 말하지 않은 사람은 테러나 살해의 대상이 되었다. 항상 주위에 동조해, 공기를 흐르는 풍조는 양자에게 공통되고 있다. 지금, 일본계 사회에 대해 깊이 배울 의의는 큰 것이 아닐까.


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